2010.08.14 (Sat)
5年前の今日、平成17年8月14日に父が亡くなりました。
もう5年もたったのかと、感慨もひとしおです。
実家で娘たちと仏壇に手を合わせ、追善回向をしました。娘たちも真剣に祈っていました。
あの日、病院にいる母からただならぬ声で「お父ちゃんの様子がおかしい」との電話があり、駆けつけた時は体が冷え切っていました。呼吸も虫の息。
それでも、5人の孫全員が病室に揃うまで、生と死をさまよいながら、最後の力を振り絞っていた姿を、忘れることはできません。
そして、「おじいちゃん、ありがとう!」という孫たちの声に頷きながら、眼もとから、すぅーっと一筋の涙が。それが最期でした。
思えば、25年間、半身不随の身体障がい者でありながら、不自由な体への愚痴ひとつこぼさず、快活に温和に私たちを見守ってくれていた父。
ちょうど30年前、高校生だった私が起床すると、父は危篤状態。何度も絶望を味わいながら、一歩も退かず病魔と闘い、1年後に笑った退院したことは、何にも代えがたい私の誇りです。
「オレはこのひとの息子なんや!」
2回目の手術は12時間半かかりました。田舎から喪服を詰めたスーツケースを抱えて駆けつけた親戚に、病院に詰めるよう依頼し、私たち母子は仏前に座りました。
ジタバタしても仕方が無い。宿命と闘おうとハラを決めたのです。
最初は「どうか助けて下さい」「一命だけはとりとめてください」と祈っていました。
しかし、途中から祈りが変わったのです。すがるのではない、闘うのだ。病気に負けてたまるか。あきらめてたまるか!
そして12時間を超えたころは、誓いの祈りとなっていました。真剣に祈ってくれている同志を落胆させるわけにはいかない。親せきや近所に仏法の威力を証明しなくてはならない――。
病室に戻った時、父は体重が半減したと思うくらい消耗していましたが、一命を取り留めたのです。
食物人間状態から徐々に回復し、記憶障がいも克服し、主治医が「一生車椅子です」と断言したのにあきらめず、つらいリハビリに励み、歩いて退院したのでした。
私は、病気と闘う人や、介護をしたりされたりしている方の、つらく苦しい気持ちは、いやといいほどわかります。
そして今、議員という立場で、福祉に携わっている自分が、不思議に感じてなりません。父の激闘を間近で見ていたからこそ、今の自分があるのだと、心の底から実感します。
父が倒れた当時、高校生だった私は、あの時の父と同じ年齢になりました。早死にする家系の宿命を乗り越え、74歳まで寿命を延ばした父に負けず、使命の道にまい進するしかありません。
5年前の父の笑っているようなやすらかな寝顔を思い浮かべ、物言わぬ父の“遺志”を厳粛にかみしめています。
もう5年もたったのかと、感慨もひとしおです。
実家で娘たちと仏壇に手を合わせ、追善回向をしました。娘たちも真剣に祈っていました。
あの日、病院にいる母からただならぬ声で「お父ちゃんの様子がおかしい」との電話があり、駆けつけた時は体が冷え切っていました。呼吸も虫の息。
それでも、5人の孫全員が病室に揃うまで、生と死をさまよいながら、最後の力を振り絞っていた姿を、忘れることはできません。
そして、「おじいちゃん、ありがとう!」という孫たちの声に頷きながら、眼もとから、すぅーっと一筋の涙が。それが最期でした。
思えば、25年間、半身不随の身体障がい者でありながら、不自由な体への愚痴ひとつこぼさず、快活に温和に私たちを見守ってくれていた父。
ちょうど30年前、高校生だった私が起床すると、父は危篤状態。何度も絶望を味わいながら、一歩も退かず病魔と闘い、1年後に笑った退院したことは、何にも代えがたい私の誇りです。
「オレはこのひとの息子なんや!」
2回目の手術は12時間半かかりました。田舎から喪服を詰めたスーツケースを抱えて駆けつけた親戚に、病院に詰めるよう依頼し、私たち母子は仏前に座りました。
ジタバタしても仕方が無い。宿命と闘おうとハラを決めたのです。
最初は「どうか助けて下さい」「一命だけはとりとめてください」と祈っていました。
しかし、途中から祈りが変わったのです。すがるのではない、闘うのだ。病気に負けてたまるか。あきらめてたまるか!
そして12時間を超えたころは、誓いの祈りとなっていました。真剣に祈ってくれている同志を落胆させるわけにはいかない。親せきや近所に仏法の威力を証明しなくてはならない――。
病室に戻った時、父は体重が半減したと思うくらい消耗していましたが、一命を取り留めたのです。
食物人間状態から徐々に回復し、記憶障がいも克服し、主治医が「一生車椅子です」と断言したのにあきらめず、つらいリハビリに励み、歩いて退院したのでした。
私は、病気と闘う人や、介護をしたりされたりしている方の、つらく苦しい気持ちは、いやといいほどわかります。
そして今、議員という立場で、福祉に携わっている自分が、不思議に感じてなりません。父の激闘を間近で見ていたからこそ、今の自分があるのだと、心の底から実感します。
父が倒れた当時、高校生だった私は、あの時の父と同じ年齢になりました。早死にする家系の宿命を乗り越え、74歳まで寿命を延ばした父に負けず、使命の道にまい進するしかありません。
5年前の父の笑っているようなやすらかな寝顔を思い浮かべ、物言わぬ父の“遺志”を厳粛にかみしめています。