吉田たかおのよしだッシュブログ

京都市会議員 (公明党)・吉田孝雄が日々感じたことを綴ります。

“突き抜ける”文化人上田秋成を推す!

2024.05.06 (Mon)
【はじめに】
 近世文学の最高峰『雨月物語』の発刊(1776年)から、間もなく250年になる。作者の上田秋成(1734~1809)は、江戸時代中期から後期に上方(京都・大坂)で活躍した文化人であり医師でもあったが、『ぬば玉の巻』という『源氏物語』の注釈書を著しており、『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』の本居宣長(1730~1801)と論争を展開した国学者でもあった。
 
また、伊藤若冲(1716~1800)、円山応挙(1733~1795)や頼山陽(1781~1832)などの錚々たる文人と京都で交流しただけでなく、江戸の蔦屋重三郎(1750~1797)や喜多川歌麿(1753~1806)、大田南畝(1749~1823)、葛飾北斎(1760~1849)、曲亭馬琴(1767~1848)ら、絢爛たる化政文化の立役者たちと同時代を生きた人でもあった。

 秋成は1793年から亡くなるまでの晩年を京都で暮らし、墓が南禅寺東側の西福寺(左京区)に、歌碑が梨木神社(上京区)にある。壮絶な出自や障がいを乗り越え、苦難を文学の糧とした「人間ドラマ」を生き抜いた秋成は、現在放映中(2024年)の大河ドラマ『光る君へ』と、来年(2025年)放映予定の『べらぼう』の、どちらにも縁(ゆかり)があるという稀有な存在である。

 京都観光のモチーフとしてもってこいであるが、それだけでは余りにもったいない。“突き抜ける”文化人の先駆者である秋成の生涯を知り、作品に触れることは、文化芸術の多角的な振興に大きな価値があると確信し、心から「推し」てまいりたい。

【波乱万丈の半生】
 享保19年(1734年)大坂曾根崎で私生児として生まれた秋成は、満3歳で堂島の紙油商嶋屋を営む上田茂助の養子となったが、翌年に疱瘡の後遺症で手の指が曲がったままとなる。出生の秘密と後天的な障がいは秋成に大きな影響を与えたと思われるが、環境に左右されず勉学に励み、和漢の古典や俳諧、戯作など幅広く文学を修めた。

 宝暦10年(1760年)、京都生まれの植山たまと結婚。子はできなかったが、妻を瑚璉尼(これんに)と呼び、その由来を「コレコレと呼ぶに勝手が良い」とユーモラスに描いている。彼女に先立たれた時は「こい転び足摺しつつ」嘆き、自殺まで考えたほど愛情を注いだようである。

 明和3年(1766年)と翌年、『諸道聴耳世間猿』(しょどうききみみせけんざる)と『世間妾形気』(せけんてかけかたぎ)という浮世草子2冊を上梓し、その翌年に初期読本の傑作『雨月物語』初稿を書き上げるなど旺盛な執筆活動に入ったが、同8年(1771年)に嶋屋が火災で破産してしまう。苦境にめげることなく、医学を都賀庭鐘に学び、安永5年(1776年)に大坂高麗橋で医師として開業すると共に、『雨月物語』を出版するのである。

 最晩年の随筆集『胆大小心録』(たんだいしょうしんろく)の回想によると、納得のいかない症状の患者には頼まれもしないのに日に二度三度と往診し、診断に迷うと他の医者に回したうえで毎日見舞いに行ったという。幼女を誤診で死なせたときには激しく懺悔し廃業を決意したといわれる。

【多様な文学活動】
 このころから国学研究に熱中し、安永8年(1779年)に『源氏物語』の注釈書『ぬば玉の巻』などを執筆。天明4年(1784年)に考証「漢委奴国王金印考」を、翌年に『万葉集』研究「歌聖伝」を発表すると共に、同6年(1786年)には本居宣長と歴史に残る論争を展開している。翌年には、戯作『書初機嫌海』(かきぞめきげんかい)と俳文法書『也哉鈔』(やかなしょう)を上梓した。

 寛政2年(1790年)に左眼を失明するという悲運に見舞われる。同5年(1793年)に京都東山の袋町に移った後は、住居を転々としながら古典の校訂で身を養い、同9年(1797年)に妻に先立たれた。翌年、右目も失明するが奇跡的に回復し、洛中の貴族や文人をはじめ、江戸の大田南畝らと交わる。同11年(1799年)は平安時代の『おちくぼ物語』を校訂し発刊している。

 万葉集論『冠辞続貂』(かんじぞくちょう)や歌文集『藤簍冊子』(つづらぶみ)、書簡集『文反故』(ふみほうぐ)を出版するも、心血を注いで改稿を重ねた『春雨物語』は日の目をみないまま、文化6年(1809年)に没し、西福寺に葬られた。『雨月物語』と並ぶ傑作『春雨物語』は写本でのみ伝わっていたが、昭和戦後に完本が発見され復刻刊行されるという数奇な運命を辿っている。

【さいごに】
 上田秋成は、私生児として生を受け、幼少期の病によって障がいを背負い、不慮の火災で家業が倒産するも、医師として身を立て、江戸中後期の上方文化をけん引した。晩年も失明の危機を克服し、全ての「古典全集」にピックアップされる傑作を残した。まさに時代を画する突出した偉人であり、京都人の誇りといって過言ではない。 

 『雨月物語』の序文で、秋成は『源氏物語』を書いた紫式部と、『水滸伝』の作者・羅漢中と比べ、自分の作品は杜撰で荒唐無稽と謙遜している。しかし、逆に言えば、彼らと比肩するだけの自負を持って世に問うたと宣言したと言えるのではないだろうか。

 この物語のうち「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2編をモチーフにして、溝口健二監督が1953年に映画化し、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。この映画『雨月物語』は世界の映画史に残る作品として高い評価を受け、英国映画協会が10年ごとに発表している「映画評論家が選んだ史上最高の映画べスト100」で、1962年から最新の2022年まで全てランクインしているほか、2005年にタイム誌が発表した「史上最高の映画100本」や、2018年にBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」にも選出されている。