吉田たかおのよしだッシュブログ

京都市会議員 (公明党)・吉田孝雄が日々感じたことを綴ります。

こんな大河を視てみたい!(その2)

2024.04.20 (Sat)
【仮称・平安の大将軍】
 先日アップしたつれづれトークが好評でしたので、調子に乗って第2弾をお届けします。今回は時代を大きくさかのぼって、大河史上最も古い時代、坂上田村麻呂とその父親苅田麻呂が主人公です。仮タイトルは「平安の大将軍」でいかがでしょうか?
 
 主人公の坂上田村麻呂は実質的な初代征夷大将軍であり、清水寺の創建者としても有名です。また、身長は約180センチで、後ろから見ても前から見ても巌石のような偉丈夫であったと伝えられており、目は鷹の蒼い眸のように鋭く、鬢は黄金の糸を紡いだように光っていたといいます。エキゾチックですね。
 
 しかし、坂上氏はかつて反逆者の汚名をつけられた家系であり、そこから盛り返して天皇の親任を得て活躍をするという、ある意味ドラマチックな歴史があるのです。
 
【父・坂上苅田麻呂】
 2人の先祖・阿知使主(あちのおみ)は、応神天皇の時代に百済から帰化した渡来人であり、後漢の霊帝の末裔を名乗ります。東漢(やまとのあや)が奈良県の明日香村の地域、西漢(かわちのあや)が大阪府の古市に本拠を構えたようです。応神天皇陵のあたりです。
 
 漢と書いて「あや」と読むのは、織物や工芸の技術が謂われとのこと。同時に、土木や建築の技術、そして軍事の面で貢献をしてきました。
 
 その4代目がいくつかに分家し、そのうちの1つが坂上を名乗ります。これが坂上駒子と言いますが、日本書紀では東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)と書かれています。

 歴史好きな人はピンと来るかもわかりません。この東漢直駒は、蘇我馬子の命令で、崇峻天皇を暗殺すると言う歴史上始まって以来のテロリストの役割を演じてしまい、その挙句に口封じのため殺されてしまうのです。いわば血塗られた汚名を着て、一族は没落してしまいます。
 
 その後3代にわたって雌伏の時を堪えますけれども、坂上老(おゆ)と言う人物が壬申の乱で活躍して復権。そして奈良時代、孫の犬飼が武芸の才能を発揮して聖武天皇の信頼を得て昇進します。これが苅田麻呂の父親です。
 
 主人公の1人である坂上苅田麻呂は大きく3つの功績を残しました。1つは橘奈良麻呂の乱で活躍し、クーデターを未然に防ぐ役割を果たしました。2つ目は藤原仲麻呂の乱です。最大の権力を握っていた仲麻呂が上皇と天皇の争いに乗じて、自分が天皇になると言う野望を持ち、玉璽を奪う暴挙に出た時に、苅田麻呂が放った矢が戦局を動かし、恵美押勝と名乗った仲麻呂は滅亡します。
 
 有名な吉備真備が軍略を建てて鎮圧した功労者ですが、具体的に作戦を実行したのが、若手の兵(つわもの)たちであり、苅田麻呂がその中心にいたのではないかと思います。
 
 なお、真備は当時70代の高齢でしたが、その直前に仲麻呂によって九州に左遷されていました。名目は唐王朝の混乱によってわが国が襲撃されるかもしれないということで、派遣されたわけです。当時の唐は、玄宗皇帝の時代で安禄山の乱で都落ちし、楊貴妃が殺害されるという大混乱になっていました。その隙に乗じて実は新羅への出兵が計画をされたのですが、それは取りやめになりました。私は、太宰府にいた真備と都の苅田麻呂たちが連携して無謀な軍事計画を断念させ、平和を勝ち取ったのではないかと推測しています。
 
 3つめは、道鏡事件です。女帝・称徳天皇が僧侶である道鏡を寵愛して、政治が乱れていましたが、天皇自身はもう結婚しないということで、道鏡を次の天皇につけると言う驚天動地の決定を下そうとします。それに対して和気清麻呂が勇気を振り絞って宇佐神宮の神託を報告し弾圧を受ける事件がありましたが、その時に苅田麻呂が清麻呂を守る側に立ち、天皇が亡くなった後、道鏡の野望を打ち砕く活躍を見せたのです。これが父親である苅田麻呂の3つの大きな業績だと思います。
 
【子・坂上田村麻呂】
 さて、その息子坂上田村麻呂も、同じく3つの偉大な業績があります。1つは、桓武天皇の蝦夷への平定作戦の戦い(征夷)に早くから従事し、本格的な征夷大将軍に任命されて活躍。蝦夷の大将であるアテルイを降伏させたことです。軍事力で追い詰めるだけでなく、人格を前面に出して感服させ、平和交渉の結果、都に連れて来たのです。
 
 ここで講和条約が結ばれれば素晴らしかったのですが、朝廷の決断は田村麻呂の願いを裏切って、アテルイを処刑してしまうのです。悲劇としか言いようがありません。アテルイの慰霊碑は清水寺にあります。
 
 2つ目の業績は「徳政争論」で桓武天皇に征夷を辞める決断の後押しをしたことです。具体的に言えば、天皇が死の直前に、このまま新しい都平安京の造営と征夷という軍事作戦を両立するということは、財政面においてもまた治安の面においてもトータルで見てこのままでいいのかと思い悩み、その結果、家臣に問答をさせて判断を下す、と言う手法をとり、平和の決断を下すわけです。これをプロデュースしたのが、誰よりも征夷に貢献した田村麻呂ではなかったかと、私は思っています。
 
 そして3つ目は薬子の変です。桓武天皇の2人の息子、平城天皇と嵯峨天皇の確執で、位を譲った平成上皇がもう一度皇位につくとの野望を抱いて反乱を計画する大事件が勃発しました。これを田村麻呂が出撃して鎮圧に成功し、平和を勝ち取った功績です。
 
 田村麻呂は、その死後は勅命により、都の東に向かって立ったまま柩に納めて埋葬され、「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称されました。我が国の歴史書「六国史」では、田村麻呂のエキゾチックな風貌が紹介されているだけでなく、「怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」と描かれています。
 
【さいごに】
 田村麻呂の子孫は清水寺を守り、また現在の大阪市平野区などの地域を治めるのですが、その4代目に坂上是則と言う人物が登場します。彼は蹴鞠の名手で、リフティングを206回まで続けて一度も落とさなかったので醍醐天皇から称賛されたエピソードがありますし、百人一首の「朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪」を詠んだ歌人としても有名です。 
 
 また、平安後期の法学者である坂上明兼も田村麻呂の末裔であり、法学書「法曹至要抄」は鎌倉幕府の「御成敗式目」にも影響を与えました。このように、征夷大将軍の後裔から文化芸術や学術の超一流が誕生したことは、極めて興味深いと思います。
  
 最後に、大河ドラマでは男だけが登場するのは失敗のもとだと言われますので、坂上父子のドラマも上記のままでは心配だと思われるかもしれません。しかし、ご安心ください。この時代の女性は誰もが逞しくドラマチックです。
 
 光明皇后と孝謙(称徳)天皇の母娘、称徳女帝の異母妹で悲劇の象徴井上内親王、吉備由利(真備の娘)をはじめとする優秀な女官たち、桓武天皇の母で百済系の高野新笠、清水寺縁起や今昔物語集に登場する田村麻呂の妻・三善高子、薬子の変の主人公藤原薬子など、実に多彩なラインナップではないでしょうか。
 
 田村麻呂の娘・春子は桓武天皇の妃で、葛井親王を産みました。親王が12歳の折に豊楽院の射礼で百発百中を成し遂げ、外祖父田村麻呂が喜びのあまり親王を抱いて立ち上がって舞い、「自分は10万の兵を率いて向かうところ敵なしであったが親王には及ばない」と語ったといいます。親王の孫・棟貞王女が清和天皇の更衣となり清和源氏の源流となります。源為朝や義経には、田村麻呂の血が受け継がれているのです。
 
 激動の平城から平安にかけて、平和のために戦った2人の大将軍は、まさに「親子鷹」といって過言ではありません。骨太の大河ドラマをぜひ視てみたいと願うのは、私だけではないと思います。(おわり)