吉田たかおのよしだッシュブログ

京都市会議員 (公明党)・吉田孝雄が日々感じたことを綴ります。

倭国大王列伝(3)

2021.01.04 (Mon)
3.ミマキイリヒコ(崇神天皇) 

 九州から東征し、ヤマト(大和)に王権を開いたカムヤマトイワレヒコ(神武)から10代目の大王であるミマキイリヒコ(崇神)は、記紀をはじめ我が国の歴史書において時代を画する多大な業績を挙げたと伝えられている。

 1つは、疫病で国民の過半が失われる試練を克服したこと。2つは、王権の危機ともいえる強大な反乱を鎮圧したこと。3つは、いわゆる「四道将軍」を北陸道・東海道・山陽道・山陰道に派遣したこと。4つ目は出雲国を平定し勢力下に置いたこと。5つ目は戸口調査で農業を振興し「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称えられたこと。6つ目は灌漑など大型の事業に成功し国家の安定に尽力したこと。そして7つ目には任那や新羅との交流が始まったとされる点である。 
 
 記紀では、2代から9代までの大王の事跡に関する記述がほとんど無く、特に日本書記では第7巻に一括で収録されている(いわうる欠史八代)ことを踏まえると、第8巻に記載された崇神に多くの偉大な業績が集中していることに対して、近代合理主義的観点から疑いの目を向けられ、非実在説が主流になっている。神武と同じ称号(ハツクニシラス)を捧げられたことも、その根拠となっている。しかし、文献学的および考古学的に検証した結果として、全くの虚像(フィクション)と決めつけるのは妥当ではなく、長い年月の風雪に耐えて伝承されていた実像(歴史的事実)の痕跡が垣間見えるのではないか。この点を考察したい。

【考察1】血統
 伝承として神武から10代目の大王と記憶されていた。ヒコクニオシヒト(6代孝安)から書記が編纂された当時の朝廷に仕える豪族の遠祖が登場するが、これは以降の直系や傍系の王子の名前に「ヒコ〇〇」と付くことからも信憑するに足ると思われる。同時に、吉備氏や毛野氏などの地方王権や和珥氏、丹波道主などの朝廷と連携した主要豪族の系図を皇統に組み込んだ痕跡と推察される。(ただし、代数や名前は正確ではなく後世に造作されたものであることは、多くの歴史家の洞察の通りと思われる) 

 ヒコオオビビ(9代開化)の嫡子である崇神は、畿内北部に広大な勢力を持つ息長氏の祖ヒコイマス(彦坐)の異母兄弟であり、同時に蘇我氏などの祖である武内宿禰の祖父ヒコフツオシノマコト(彦太忍信)の異父兄と伝承される。この時代までの先行豪族勢力の血統を集約するとともに、のちの時代に活躍する豪族の元祖的存在と位置付けられている。息長氏はオキナガタラシヒメ(神功皇后)の出自であり、その権力を支えた長寿の臣下が武内宿禰である。

【考察2】疫病 
 即位5年目に疫病が流行して人口の半ばが失われるパンデミックに直面。2年後に、ヒコクニクル(8代孝元)の妹ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)に大物主神が憑依して託宣され、そのとおりに対策を打って疫病が終息し五穀豊穣となった。百襲姫を祀る箸墓古墳は最古の前方後円墳で、最新の考古学知見では3世紀中半~4世紀初頭の頃と推定される(魏志倭人伝の卑弥呼とほぼ同時期)。したがって、その2世代後の崇神は4世紀初期から中期頃の治世と推定される。

 邪馬台国畿内説に立てば、神を祀る巫女である百襲姫が女王卑弥呼に比定されるが、この前の70~80年間の「倭国大乱」が記紀には全く描かれていない(欠史八代)のが弱点である。また、纏向遺跡が倭人伝に詳しく記載されている「環濠集落」ではないことも大きい。崇神の2代後の景行時代から本格化する「熊襲征伐」伝承や6世紀の「磐井の乱」に比定される古墳の発掘成果を分析すると、邪馬台国九州説の可能性が高いのではないだろうか。

【考察3】四道将軍 
 即位10年、四道将軍を派遣したと伝わる。大彦命(9代ヒコオオビビ=開化の第1皇子)を北陸道に、武渟川別(大彦の息子で阿倍氏の祖)を東海道に、吉備津彦(7代ヒコフトニ=孝霊の皇子とされる)を西道(山陽道)に、丹波道主(開化の皇子とされる彦坐の子)を山陰道に将軍として遣わした。その直前、タケハニヤスビコ(武埴安彦=8代孝元の皇子)が謀反。北方の山背(京都府)と西方の大坂から都を挟撃されるも、吉備津彦命と大彦命、ヒコクニブク(彦国葺=和珥氏の祖)の活躍で叛乱は終息。四道将軍は翌年に戎夷を従わせたという。 
 
 これほど早期に成功した要因は、四道将軍の派遣が軍事侵攻ではなく、疫病に苦しむ地方を救援するための「応援部隊」だったからであると推定したい。重病者の救護や隔離、軽症者の治療や介護、食糧など生活必需品の提供、荒廃した村落の復旧作業(消毒・耕作地整理など)や労働力補充を含めた、多角的な救援活動を展開して、本州の各地域の立て直しに貢献した。このことが倭国統一への足掛かりを構築したと後世の歴史書(記紀以前の国記・天皇記や帝紀・旧辞などを含む)で綴られたのではないだろうか。 
 
【考察4】「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」の称号  
 疫病や反乱という危機的状況を克服した倭王権に各地の王権が心服し、吉備や丹波などを含む連合王権の盟主となった。吉備津彦や丹波道主などが皇統に組み込まれたのは、血族の盃のような盟約を交わした痕跡なのかもしれない。その後、戸口を調査して初めて課役を科す事業を成就するとともに、大規模な灌漑事業を行って農業を振興した。これらの業績で「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称えられたと伝わる。九州や出雲という並列する王権を圧倒する実力を名実ともに身につけた治世であった。

 なお、倭国よりも中国に近接している韓半島では、魏志韓伝で馬韓と辰韓と呼ばれた地域がそれぞれ統一されて、その後の正史で百済と新羅という王朝国家が成立している。この地殻変動と軌を同じくして、崇神が率いる倭王権の統一事業も4世紀半ばに本格化したと思われる。
 
【考察5】出雲平定 
 武埴安彦との戦いや四道将軍の活躍で勢力を拡大した倭王権は、素戔嗚時代から文明伝播の象徴であり内政と外交をリードしてきた出雲に謀略を仕掛ける。新宝を献上させる命を下し、これに対する出雲振根(いずものふるね)と弟の飯入根(いいいりね)の紛争への介入を口実に、吉備ら近在の勢力と合力して武力侵攻。長年の国家的課題であった旧宗主国出雲を完全に支配下に置くことに成功した。覇者交代を象徴する大事件であり、天孫族の直系たる九州倭国(ヤマトからは熊襲と蔑称される)を侵攻する決意を固める契機となった。

 後世から「熊襲征伐」と呼ばれる九州侵攻は、崇神の孫オオタラシヒコ(12代景行)からヤマトタケル(日本武尊)を経て、その子タラシナカツヒコ(14代仲哀)までの3世代にわたる長期戦であり、仲哀が討ち死にしていることからも相当な乱戦であったと推定される。  

【考察6】韓半島と本格外交 
 出雲平定の成果として韓半島との本格外交が始まった。任那が使者として遣わしてきた蘇那曷叱知(そなかしち)は崇神大王の死後も在日し、次のイクメイリヒコ(11代垂仁)の即位2年に任那へ帰国したが、その際に倭国からの交易品を新羅に奪われたといい、任那と新羅の抗争はここから始まると記述されている。

 垂仁期の記述には帰国の際に垂仁が任那の国名を父ミマキイリヒコの名に因んで命名したとの説や、新羅から渡来したアマノヒボコ(天日槍)の末裔タジマモリの常世国のエピソードが収録されている。古代の大きな転換期にヤマトを治めた神功皇后という偉大な指導者(かつ巫女)の系譜を組み込んだ影響と考察したい。

 神功皇后の摂政としての治世と、その後継ホンダワケ(15代応神)が君臨した時代は、おそらく任那の鉄を守るために韓半島で激化した戦乱に本格介入した「三韓征伐」に適合する。この戦争は、金石文として史料価値の高い「好太王碑」において、倭国が391年に百済や任那に軍事侵攻して従属させたが、高句麗が激戦の末に打ち破って404年に撤退させたと謳いあげられている。

 河内に世界最大規模の王墓(応神天皇陵や仁徳天皇陵)を築いた応神の権力掌握の経緯や、曽孫にあたるワカタケル(21代雄略)の絶頂期と急激な衰退、越の国から応神5世の孫の名目で乗り込んで輿入れしたヲオド(26代継体)の列島を横断する壮大な興亡については、研鑽を深める時間を確保して取りまとめて、『続・倭国大王列伝』として後日に掲載したい。ご了承をお願いする次第である。