吉田たかおのよしだッシュブログ

京都市会議員 (公明党)・吉田孝雄が日々感じたことを綴ります。

倭国大王列伝(2)

2021.01.04 (Mon)
2.カムヤマトイワレヒコ(神武天皇) 
 
 天孫のニニギ(天津彦彦火瓊瓊杵)が筑紫に降臨し、その孫にあたるウガヤフキアエズ(鸕鶿草葺不合)の末子(天照の5世の孫)であるヒコホホデミ(彦火火出見)が、日向の高千穂で兄の五瀬(イツセ)らに対し東方への遠征を提案。有名な「神武東征」である。軍勢を率いて日向から豊国の宇佐に着いた後、筑紫の岡田宮で1年、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごしたという。
 
 浪速の白肩津で迎え撃ったトミノナガスネビコ(登美能那賀須泥毘古)の軍勢と交戦。イツセの負傷(その後死亡)など打撃を蒙って撤退し、紀伊半島を迂回して熊野から上陸。八咫烏の協力を得た行軍は険悪な山道のため苦難を極めたが、地域に盤踞する豪族との戦いを重ねる中で勢力を拡大し、遂にナガスネビコとの決戦を制した。

ニギハヤヒ(饒速日)を奉ずる地元豪族を調略して婚姻関係を結び、畝傍の橿原宮で即位。ヒコホホデミはカムヤマトイワレヒコと諡(おくりな)された。(のちに奈良時代の淡海三船が「神武天皇」などの漢風諡号を一括で追贈する) 神武がヤマト王権の初代大王となった事跡を検証し、歴史事実の反映をあぶり出してみたい。 

【考察1】出立の地 
 天孫のニニギが筑紫に降臨して以降は、次の世代の海幸彦山幸彦の神話や、孫の世代のウガヤフキアエズとワダツミ(海神)の娘との婚姻神話が綴られている。天孫勢力(ウガヤ王朝との伝承もある)が九州地方の主力であった海人族と外交を重ねて覇権を確立した経緯の痕跡ではないかと考察したい。高天原から降臨した地が出雲ではなく筑紫であることは、大国が天国(天照の勢力)に筑紫島(九州)を割譲したのではないかと思われる。

 日向(宮崎県)にも多くの古墳が残るが、地政学的に九州の中心地である筑紫や有力国である火(肥=佐賀・長崎・熊本県)や豊(福岡・大分県)から見て周辺の地であり、そこから出発したとされるヒコホホデミらは正統な王権(ウガヤ王朝)の傍流であったと推定される。

【考察2】東征の大義名分  
 東征の理由には、幾つかの想定が考えられる。後漢書や魏志倭人伝に「倭国大乱」とある動乱期に、邪馬台国連合の混乱とそれに乗ずる狗奴国(くぬこく?=熊襲)の侵攻によって危殆に瀕した日向が瀬戸内海を東進したのではないか。あるいは、大乱のさ中に戦略の一環として王族のヒコホホデミにウガヤ王朝の中枢から指令が下され、倭国に非協力的な勢力(ニギハヤヒを奉ずる畿内エリア)を服属させる軍事侵攻であった可能性もある。この推理は、九州の窓口(宇佐)や瀬戸内海の王権(阿岐や吉備)では戦闘が無く、軍備を整えていることからも伺える。もう1つの仮説は、筑紫や宇佐、安芸や吉備という製鉄の地域が漸進的に勢力を東に延伸していったプロセスが伝承され、それが記記に収録されていったとも考えられる。

【考察3】戦闘経過 
 記紀には神武東征の経緯がドラマチックに描かれている。ヒコホホデミ軍が浪速(波が困難な地=難波)に侵攻して河内湾から上陸した際に草香邑(東大阪市)の孔舎衛坂でナガスネビコに迎撃され、長兄イツセが流れ矢にあたって負傷した。日の神の子孫の自分たちが日に向かって戦うことは天の意思に逆らうと悟り、軍勢は海路南へと向かった。イツセは茅渟(和歌山市近辺)で亡くなり、船は熊野付近で大嵐にさらされる。次兄と三兄が自らを犠牲にして波浪を収めたが船が大破し、止むを得ず熊野から上陸したものの、毒気(疲労や土地の衆の提供した丹か?)を受け軍衆が倒れる。

 そこへ熊野高倉下が現れ、天神から授かった神剣韴霊(ふつのみたま)を奉ることで気を取り戻して進軍を再開。天照大神が八咫烏を遣わしたとの神意を旗印に宇陀地域や磯城地域に到達し、武力と調略を駆使して豪族を恭順させる。最終決戦では、王権の証である神器を見せつけることでニギハヤヒの名のもとでナガスネビコを誅殺。ヤマト(大和)地方の支配権を簒奪した。

【考察4】戦後処理 
 事代主神の娘(現地の最高権力者の一族)ヒメタタライスケヨリヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)を正妃とした。道臣命や大来目らの子飼いに領地を封ずるとともに、侵攻時に協力した現地の豪族らに本領を安堵。ヒメタタライスケヨリヒメを迎えるにあたり大来目の入れ墨(魏志倭人伝で克明に記述される風習)に困惑したとのエピソードも残されている。
  
 その死後に、九州時代に儲けた長子タギシミミと地元のヒメタタライスケヨリヒメ所生の王子との後継者争いが勃発し、カムヌナカワミミ(神渟名川耳=第2代綏靖)が勝利して即位した。母系社会の視点から考察すると、筑紫から来襲したヒコホホデミ(イワレヒコ=初代神武)の血筋を受け入れた上で、従来のニギハヤヒ系統と習合したと言えるのではないか。

 カムヤマトイワレヒコとの諡号は、前方後円墳発祥の地とされる纏向遺跡を擁するヤマト(奈良県)を都と定め、倭王権を創始した「謂れ」を物語る。初代大王である神武は、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられて後代に伝承された。なお、「ヤマト」の名称は九州の倭人連合の首都「邪馬台国」(山戸郡か?)を襲名したと考えられる。