吉田たかおのよしだッシュブログ

京都市会議員 (公明党)・吉田孝雄が日々感じたことを綴ります。

倭国大王列伝(1)

2021.01.04 (Mon)
はじめに
  
 昨年(2020年)は、日本最古の正史「日本書紀」が養老4年(720年)に完成して1,300年にあたっていた。コロナ禍で式典や地域行事、シンポジウムなど各種イベントが中止となる中、時間の合間を利用して古代史の関連書籍を紐解く機会があった。令和新時代を切り開きゆくためにも、透徹した歴史観を養う意義は大きいとの想いで研鑽を重ねたところ、いくつかの望外の発見があった。古代史を彩る大王の列伝という形式で考察したので、心ある読者の叱声を求めたいと思う。
 
 2020年のお盆休みに『国主諫暁についての一考察』(未完)を発表したが、今回のお正月休みの文章は『倭国大王列伝』と銘打っている。独りよがりの考察ではあるが、知的刺激は少なくないと思うので歴史に関心ある方に読んでいただけたら幸いである。なお、長くなるので数回に分割してアップすることをご了承願いたい。

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1.オオクニヌシ(大国主命)

 出雲神話(因幡の白兎、八十神の迫害、根の国訪問、大国主の妻問い)の主人公であるオオクニヌシ(大国主命)は、日本書記や古事記(記紀という)および新撰姓氏録などによると、スサノオ(素戔嗚)の六世の孫であるが、同時に嫡子とする伝承もある。 

 スクナビコナ(少彦名)と協力して天下を治め、禁厭(まじない)や医薬などの道を教え、大物主神(おおものぬしかみ)を祀ることによって葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させたとされている。文字通り「大国の主」として君臨していたが、高天原の使者と交渉し国譲りを承諾し、その結果としてアマテラス(天照)を奉ずる勢力(天孫)が筑紫に降臨した。

 これらの神話(伝承)は全くの虚構ではなく、人々に語り継がれた歴史事実の反映ではないだろうか。その立場からわが国の創世記を復元してみたい。

【考察1】 日本人のルーツ 
 魏志倭人伝をはじめとする中国の歴史書の記述から、春秋時代後期の呉と越(呉越同舟や臥薪嘗胆のエピソードが史記に語られている)が滅亡した際に、その末裔が列島に渡来して稲作や製鉄などの最新文明を伝えた痕跡が伺える。鉄器は農機具や灌漑用具であるとともに武器になる。邑がクニに発展する過程で、権力の魔性に魅入られた攻防戦が繰り広げられ、それに伴って科学技術の進展が飛躍していった。

 周代に交易に訪れた(朝貢)と記録されていることから、倭人が現在の朝鮮半島南部にも居住していた可能性が高い。新羅の第4代王(脱解尼師今)が倭国東北一千里にある多婆那国(但馬・丹波地域に比定)から流れてきた卵から生まれたと三国史記が伝えていることや、倭人伝に1年の航海で裸国や黒歯国に至ると記されている事実からも、現代の我々が想像する以上にダイナミックな交流が繰り返されていたと推定される。 

 倭人伝に「倭の北岸」と記載されている狗邪韓国は、同じ魏志の韓伝に記載されている弁辰狗邪国と同じ国で、倭と韓が同時に領有権を主張していた(21世紀の現代と同じように)と思われる。この地は鉄を産出することで大いに栄え、そのために韓半島の主要国(百済や新羅)と対岸の倭国(対馬・壱岐・九州)がせめぎ合う攻防の焦点になっていた。これが高天原(狗邪=伽耶)で素戔嗚が暴虐行為をした伝説の原型と思われる。

 倭人の本拠である伽耶の天照と、中国の後裔の伝説を持ち倭人と関係が深い新羅の素戔嗚は、長年の恩讐を踏まえて交渉を重ね「姉弟」の盟約を結んだ。素戔嗚が数代早い時期に日本海岸(出雲・但馬・丹波・越)に着き、在地勢力と硬軟あわせた交渉の結果、権力者として代々治めていた。これが「姉弟」なのに数代の誤差(素戔嗚6代のオオクニヌシと天照の孫ニニギの天孫降臨伝承)がある理由ではないだろうか。 

【考察2】出雲が列島の中心
 古来10月は「神無月」と言われ、諸国の神々が出雲に参集するとされた。江戸期の参勤交代のような統治システムが想起される。同時に、出雲のみ「神在月」と言っていたとの伝承は、出雲が豊葦原中国の中心であり、文明の窓口であった事実の反映と思われる。
 
 製鉄や治水、灌漑、物流などの起点である出雲が各地域との交流を重ねる中で大八島(葦原中国)の盟主となり「大国」が形成された。多彩な出雲神話の数々は1人の人格の業績ではなく、複数の歴代大国主の事跡を集積したものである可能性を指摘したい。多くの別称や多妻の伝承は、その名残であると考察する。
 
【考察3】国譲りの真相
 記紀には国譲りが段階を踏んで進められた挿話が記述されている。高天原の列島への進出に際しては、アメノホヒ(天穂日)を先発として派遣したが成功しなかった。次にアメノワカヒコ(天稚彦)が婿入りしたが進展せず、疑心暗鬼となった上層部に暗殺される。ところが、高天原の葬儀に弔問で訪れたアジスキタカヒコネ(味耜高彦根=大国主の皇太子)がトラブルに巻き込まれ、国を揺るがす紛争に発展する。

 そして、これを口実として経津主神(磐筒女神の子、下総国香取の神)と武甕槌神(甕速日神の子、常陸国鹿島の神)が軍隊を率いて強引に交渉し、大筋で妥結するも建御名方が抵抗して武力衝突。敗走した建御名方は科野(信濃)国で降伏したという。それほどの大規模な戦いであったと思われる。しかし記紀によれば、出雲はその後も数百年もの間、一定の勢力を保ち独立国として存続したことが記紀の伝承から推察される。(第10代崇神の回で後述) 

NHKスペシャルと記憶するが、出雲大社は現存に倍する高層建築だったと分析する番組があった。そこで、高層の社が「灯台」の役割を果たしていたと言及されており、大いに首肯したところである。出雲の王権は荒神谷遺跡から大量の銅剣や銅鐸が出土しており、たたら製鉄の伝承も多いことからも、古代倭国の中心地であったことは間違いない。その大王である大国主に慎重かつ大胆に外交を展開した「天孫族=天国」が、のちに九州を本拠として韓半島や中国の王朝と渡り合ったと思われる。