吉田たかおのよしだッシュブログ

京都市会議員 (公明党)・吉田孝雄が日々感じたことを綴ります。

国主諫暁についての一考察(4)

2020.08.16 (Sun)
4.徳川期の国主諫暁 
 
【徳川家康の宗教弾圧】
 日本人は古来、信心深い民族であった。なかでも、戦国から安土桃山にかけての戦乱に次ぐ戦乱の時代、いくさ人たちは必死に武運長久を神仏に祈った。それは、殺生する自身が地獄に堕ちない保証を得たい、自らは弾に当たらず助かりたい等々、切実なものであった。また、彼らを率いる大名も同様であり、刻々と移ろう戦機を逃したくない、調略した相手に裏切られたくない、など人智を超えた神仏の領域を信じてひれ伏した。自らの正義の裏付けを神や仏の加護に求めて士気を高め、敵を調伏(呪詛)する。それが有無を言わせぬ武断社会における宗教の役割であった。
 
 ただ、当時の権力者たちは一宗のみ限定で他を用いないという考えは持ちえなかった。八百万(やおろず)の神の国として、幾千年の歴史が積み重なって、先祖を崇拝する心情と地域に根付いた習俗に固執していた。同時に、仏教が説く法門の深遠さや重厚さに圧倒され、巨大な「文明」として尊敬した。まるで「ごった煮」のごとく仏教の各宗派を融合し受け入れていったのである。そして、彼らの眼からは、法華経こそ唯一絶対であり他宗は謗法であると断ずる日蓮の教えは「頑な」で「偏狭」と映った。
 
 同じことはキリスト教にも言える。16世紀に日本に渡来したキリスト教は、宗教的使命に熱情を燃やす宣教師(伴天連)の活躍で30万人を超える信徒を獲得した。この事実は日本人の宗教的な寛容性、敷衍すれば新しいものを受容する国民性を裏付けている。逆説的であるが、だからこそ、唯一絶対神を奉ずる伴天連の厳格な教義と、一般庶民から大名に及ぶ幅広い信徒(切支丹)の飛躍的な急増は、権力者たちにとって看過できない障害と断定され、過酷な弾圧にさらされていったのである。
 
 徳川家康は、織田信長と豊臣秀吉から引き継いだ天下統一事業の総仕上げを果たし、慶長8年(1603)に征夷大将軍に就いた。江戸幕府である。分裂から統一への過渡期にあって、三河時代に一向一揆に苦しめられた家康は、秀吉の刀狩を継承し徹底させて仏教寺院の武力と経済力を収奪。試行錯誤の末に、地域住民の葬送儀礼や戸籍管理など出先機関的な責務を担う寺請制度を推し進めるとともに、本末制度(本山と末寺を固定する施策)を確立するなど宗教統制を完成させる。その幕府から徹底的に弾圧され禁教となったのが、他宗と妥協しない切支丹と日蓮宗不受不施派であった。
 
 日蓮が求めて止まなかった『公場対決』の第3弾は、天下統一を急ぐ徳川家康のもとで3つの段階を積み重ねて行われた。その中の慶長宗論は浄土宗と日蓮宗の宗論であったが、後味の悪い強権的な判定が下され、その前後の大坂対論と身池対論は日蓮宗各門流の内紛を裁定するものであった。信長の安土宗論を上回る峻烈な仕置きであり、資料を読むほどに暗澹たる気持ちを禁じ得ない。以下に順序だてて紹介する。 
 
【妙覚寺日奥の大坂対論】 
 発端は豊臣秀吉存命時に遡る。主君信長の死後、山崎の合戦や賤ケ岳の戦いなどで勝利した秀吉は、織田家を簒奪して天下人として君臨した。南蛮貿易の利益を期待して切支丹を保護し、石山合戦の天敵顕如に天満本願寺を寄進するなど、宗教界との融和を図っていた秀吉は、天正13年(1584)に日蓮宗に安土宗論の起請文を返却する。逼塞した日蓮宗の各門流は息を吹き返した。
 
 秀吉は、貿易と宗教を侵略の道具に利用する欧州列強(スペインやポルトガル)との外交のせめぎ合いに精力を傾ける中、東アジア秩序の再編への野望を現実のものとするべく朝鮮出兵という大きな賭けに出た。朝鮮半島に甚大な被害をもたらした侵略戦争は、単なる誇大妄想と排斥されるものではなく、日本の存亡の危機を覚知して惹起したものであったと思われる。その激震は、明朝の衰退や女真(満州族)の勃興、欧州の新旧勢力の覇者交代など、世界史の変動にも大きな影響を与えたと言ってよい。ただし、布教の主眼を折伏から摂受(摂引容受の略語で、相手の間違いを否定せず受け入れ、穏やかに説得すること)に転換した日蓮宗が、秀吉を諫暁した形跡は無かった。
 
 ところが転機が勃発する。文禄4年(1595)9月、秀吉は先祖供養を盛大に挙行するべく「方広寺大仏殿千僧供養会」を企図し、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗に出席を要請した。出仕状を受けた日蓮宗各派は本国寺に集まって対応を協議する。安土宗論以来の重大事態であった。
 
 長老格の本満寺日重が「一宗にとって不詳の義であるが、国主の機嫌を損なえば諸寺が破却される。ただ一度、命に応じて出仕して、その後は辞退を願えば宗旨は建つのではないか」との折衷案を出したが、妙覚寺日奥が反対して譲らなかった。日奥の主張は多数派に容れられず、千僧供養会の参加が決定。妙覚寺の僧俗から翻意を迫られた日奥は、住職を辞して丹波小泉(現・亀岡市)に蟄居した。
 
 その折、日奥は「法華宗諫状」を秀吉に提出している。それは、「時すでに法華の代なり。国また法華の機なり。しかれば即ち天下を守る仏法は、独り法華宗に限るべし。仏法を助くる国主は、専ら法華経を崇め給ふべし。所以に仏法と世法が相応ぜば、聖代速かに唐堯虞舜の栄に越へ、正法正義を弘通せば、尊体久しく不老不死の齢を保ち給はんか」と、死を賭して国主秀吉を諫暁するものであった。日奥は翌年にも後陽成天皇に対し「法華宗奏状」を送っている。
 
 次元や時代は違うが、2.26事件の凶弾の恐怖に沈黙する昭和の政治家の中で「粛軍演説」や「反軍演説」を敢行した斎藤隆夫を彷彿とする、称賛に値する覚悟ではないだろうか。
 
 秀吉は日蓮宗が出仕したことを当然と受け止め、妙覚寺を去った日奥をお咎め無しと決裁した。ところが日蓮宗各派は、供養会への出仕をなし崩しのように続けていった。これが宗内の反発を増幅し、日奥への共鳴が波のように広がっていく。
 
 慶長3年(1598)に秀吉が没すると、京都の日蓮宗十六本山は内大臣・徳川家康に、日奥を公命違背として訴えた。翌年11月20日、家康は大坂城に両者を召喚する。大坂対論である。これを宗教統制の好機とみた家康は、「一度だけ出仕すればあとは免除する」と懐柔し、「飯の饗応を嫌うなら膳に向って箸を取るだけでよい」とまで譲歩したのだが、日奥は平伏するどころか拒絶する。

 「大仏の出仕を嫌うのは汝1人だ。衆議に違背するのは法華宗の魔王ではないか」と責める家康に日奥は「仏法の正邪は人の多少ではなく、ただ経文を本といたします」と譲らず、ついに家康は「かように強議を言う者は天下の大事を起こすだろう。ただ流罪に処せよ」と決断。その場で袈裟と衣をはぎ取られ念珠を奪われた日奥は、対馬に13年間、流人として苦難に耐えたのであった。
 
 驚くのは、他宗との対決ではなく、同じ日蓮宗内の教義上の紛糾を公儀に訴え出た各門流の高僧たちの意識である。宗祖日蓮の嘆きはいかばかりであったろうか。 
 
【常楽院日経の慶長宗論】  
 日奥の死身弘法の精神に共鳴した僧の中に、常楽院日経がいた。日経は永禄3年(1560)に日蓮宗の盛んな上総の国に生まれた。この年は桶狭間の戦いがあり、石田三成や直江兼続、後藤又兵衛が誕生した年でもある。彼が育った茂原は、天文法華の乱の契機となった松本問答の立役者松本久吉の地元であった。
 
 日奥が対馬に流された直後、日経は妙満寺27世の貫主として招聘される。東国での活躍が評価されての事であった。法華経の行者たらんと決意する日経は、日奥の赦免運動に従事するとともに、京都に安住することなく諸国を折伏に奔走する。
 
 日蓮宗内を揺るがせた方広寺大仏殿の千僧供養会は、豊臣秀頼の死までの約20年、ほぼ毎月行われていた。しかしその間、慶長元年(1596)の慶長大地震による方向寺大仏の大破や、秀吉の死(同3年)、大仏殿の焼失(同7年)など凶事が続く。統一権力の宗教政策の象徴である千僧会に対する不受不施派の批判の声は水面下で広がっていった。
 
 慶長12年(1608)に画期をなす事件が起こった。日経が尾張国熱田で浄土宗西山派の正覚寺沢道に対して「浄土三部経は妄語であり、念仏宗は無間地獄に堕つ」など23ヶ条の詰問状を送ったことが、増上寺12世存応を経て徳川家康に上訴されたのである。翌慶長13年(1609)11月15日に江戸城において増上寺廓山らと江戸城で宗論が行われた。浄土宗側で「武城問答」と伝わる慶長宗論が、日蓮宗と浄土宗の第3回目の『公場対決』であった。
 
 判者は、真言宗高野山遍照院の頼慶が選ばれ、国主である大御所家康のほか将軍秀忠、松平忠輝や蒲生氏郷、上杉景勝、伊達政宗、浅野長政など錚々たる大名と、本多正信・大久保忠隣・酒井忠世など老中が一堂に会した。過去2回の『公場対決』と比べても格段の盛儀である。
 
 当日は、早朝から家康ら一同が威儀を整えて待っていたが、日経ら日蓮宗側は登城しない。ようやく午後になってから戸板に乗せられた日経と弟子5人が参上したものの、平伏したままの状態であり、弟子たちが重病のため宗論は不可能と言上する。家康は忿然として「衆人の心を誑かせる」と断じ、宗論の継続を命じた。
 
 判者の頼慶が対論の開始を促したが、日経は悶絶して一言も発することができない。浄土宗の廓山が扇で畳を叩いて「四十余年顕真実」などを取り上げて論争を挑んだが、日経らは応えることも叶わなかったので、家康は「衆人の見るところ、浄土宗の法門の勝利は明らかなり」と判決を下したのであった。
 
 後年に日経が遺した文書によると、この日の午前に50人以上の暴漢が乱入して散々に打擲し、瀕死の状態にされたという。それが宗論の場で横たわったまま、口も利けない状態となった理由だった。この暴行が幕府の指図なのか、浄土宗側の単独行動なのか、あるいは背後関係を持たない輩の仕業なのかは明らかでない。
 
 日経と弟子5人は、その場で袈裟と法衣を剥ぎ取られたうえ、翌年2月に六条河原で処刑された。日経は耳と鼻を削ぎ落され、弟子の5人は耳を切り取られたが、1人が落命したという。弟子たちは宗門復帰を許されたようだが、日経は責を1人で負った。丹波亀山から小浜、福井や小松を転々として、金沢で本覚寺を寄進されたものの、告発を受けて富山の神通川あたりまで流浪し、その地で果てたと伝わる。家康の命による探索がいかに執拗であったかがわかる。殉教者に栄光を与えてはならないと熟知していたからではないだろうか。
 
 なお、日経と血縁が深い上総と下総では、寺請制度に組み込まれながらも「内証題目講」という在家集団が密かに信仰を続け、明治維新まで命脈を保ったという。不受不施派は江戸時代を通して「邪宗門」とされ徹底した弾圧を受けたが、記録に残る殉教者の多くが、在家の信徒たちであることが特徴である。 
 
【死せる家康と日奥の身池対論】  
 慶長14年(1609)、日経らの処刑にあたって江戸幕府は、日蓮宗諸寺に対して日経が尾張で突きつけた「念仏堕地獄」について文証(経文上の証拠)を出すよう命じた。これに対して、京都の十五山は「念仏堕地獄は経や釈には無く、祖師(日蓮)が任意に立てた法門です」と答弁した。これには、本満寺日乾(日重の高弟)などのほか、妙満寺日喜(日経の代理)や妙覚寺日就(日奥の後任)も連署している。
 
 また、不受派を強く唱えた関東の池上本門寺ら六山も屈服し、同様の答弁書を提出。受派である身延山久遠寺の日遠(日重の高弟)も答弁書を提出している。日蓮の「四箇格言」は、弾圧に戦々恐々となった門弟たちから、虚妄として否認されたのであった。
 
 しかし、ただ1人、対馬の日奥のみが違った。日奥は、法華経比喩品と不軽品の文証を明示し、「およそ日蓮聖人の法門は、経文を本として建てる。何ぞ私儀有らんか」との正々堂々たる書状を送りつけたのである。
 
 慶長17年(1612)に日奥が赦免され対馬から京都に戻ると、不受派がにわかに勢いを増した。4年後の元和2年(1616)4月に家康が死去すると、6月に博多の唯心院日忠の調停によって、不受派と受派の和睦が実現する。日奥の活発な活動によって、幕府の政策を受け入れた身延の独り勝ち状態が崩れていったのである。
 
 日奥の旺盛な執筆や説法は宗内を活性化する。その精神は「法華の行者、国主の御勘気を蒙って、遠流等の大難に値ふこと、経文の金言、祖師の行跡なり。なんぞ喜悦せざれんや」との殉教の自負に溢れ、洛中からも関東の諸山からも、圧倒的な支持を受けた。
 
 対馬流罪から23年、徳川家光が将軍の宣下を受けた元和9年(1623)に、京都所司代板倉勝重が不受不施派弘通を公許し、10月には「京都諸寺統一之連盟」が成立した。
 
 ところが日奥は、権威を借りた不当な理論や暴力で苦しんだ安土宗論と慶長宗論の苦い経験を鑑み、門下にむやみな宗論を厳重に禁止した。教団を掌握したとの達成感があったのか、それとも守りに入ったのか。生命を賭して秀吉を諫暁した折伏精神に翳りが見えてきたのである。
 
 その代わり、身延の総帥日乾との論争は熾烈を極めた。「宗義制法論」では、「祖師の時より堅く立て来たる制法を一度もこれを破らば、永代宗義は立つべからず」と固く戒めて楔を打ち込んでいる。危機感を覚えた身延も日蓮宗総本山としての法度を制定するなど反撃を開始し、日蓮宗の諸門流は再び分裂に陥った。
 
 昭和戦後の左翼学生が「内ゲバ」を繰り返して世論の共感を失ったのと同じように、日蓮宗は内部抗争に精力を傾けて消耗し、公武権力や町衆たちの眉を顰めさせていったのである。
 
 寛永3年(1626)に、徳川秀忠夫人崇源院(浅井三姉妹の三女お江の方)の死去に伴い、受派の身延山久遠寺は布施を受けた。布施を断った池上側が身延を非難したことで、それを口実に身延が池上を上訴する。この訴訟は様々な調停も不調に終わり、泥沼状態に陥った。
 
 4年後の寛永7年(1630)5月13日、幕府は江戸城に両派の代表を呼び出し、対座させて法論をおこなった。身池対論である。判者は天海大僧正や金地院崇伝など碩学6名、奉行として酒井雅楽頭や土井大炊助らが仕切った。対決する受派は身延山久遠寺の日乾、日遠、日暹と藻原妙光寺日東ら6名、不受派は池上本門寺日樹、中山法華経寺日賢ら6名であった。その中に日奥の姿は無かった。1ヶ月前に病死していたのである。
 
 対論は、寄進された寺領は国主からの「供養」なのか、それとも「仁恩」に過ぎないかが争われたが、結果は火を見るよりも明らかであった。教義上の勝劣ではなく、権現様(故・家康)の裁きが大前提であったからである。家康の死後に板倉所司代が出した公許状は無効とされた。したがって日奥の赦免も無効と決まり、流罪が再び確定。遺骨が対馬に送られた。死せる家康の裁定が、死せる日奥を容赦なく鞭打ったのだった。
 
 日樹らも流罪となり、不受派はことごとく駆逐された。徹底した弾圧が加えられたのは言うまでもない。その後も身延は、伝家の宝刀・幕府訴訟を連発して宗門の反対勢力を排除し続け、総本山の位置を確固たるものにしていった。
 
 寛永9年(1632)に日蓮宗の「本末体制」が決する末寺帳が提出されたのを機に、30数年越しに「宗門改め」が徹底される。寛文9年(1669)、寺請制度の完成に合わせて「不受不施之日蓮宗寺請禁止令」が発令された。こうした法整備によって、かつての比叡山の僧兵や一向一揆、島原の乱などのような宗教者の異議申し立ては禁圧され、300年近い天下泰平の礎となった事実は否めない。
 
 しかし、人権の本質である「信教の自由」は失われた。日蓮門流は『国主諫暁』どころか「同士討ち」に執着したことで、これを許してしまった。それ以降、日蓮宗に限らず日本の宗教は生命力を大きく減退し「葬式仏教」になってしまったのである。

 以上、4回の論考で日蓮が民衆救済のために身命を捨てて叫んだ『国主諫暁』を論じるとともに、後世の門弟が3度に渡って敢行した『公場対決』の模様を紹介し、その意義を考察した。

 権力との対決は凄まじいものがあったが、やがて日蓮の時代から700年後の世界は、モンゴルの世界征服事業をはるかに上回る残虐で悲惨な世界大戦が勃発する時代を迎える。その時、日蓮の教えはどのような影響力を持ったのか、門下の僧俗はどのように戦ったのか。21世紀の「令和新時代」に資する研鑽を深めてまいりたい。(つづく)

※次回が最終回【近現代の国主諫暁】ですが、資料収集やその他の重要な仕事も入り、原稿が未確定です。アップは少し時間をあけることとなります。ご了承ください。