吉田たかおのよしだッシュブログ

京都市会議員 (公明党)・吉田孝雄が日々感じたことを綴ります。

国主諫暁についての一考察(3)

2020.08.16 (Sun)
3.戦国期の国主諫暁

【京中おおかた題目の巷】
 応仁の乱からの復興期、日蓮の教えは京の町衆に爆発的に広まった。各寺院を有徳人といわれる富裕層が大檀那となって外護し、近衛家などの公家や薬師寺などの幕臣に加え、足利義政の母日野重子も熱心な信者であったという。
 
 彼らやその奉公人を消費者とする商業や工業、物流業そしてサービス業などの人びとは、京都を活性化させる主体者であった。20世紀中期の日本のように、廃墟から復興する過程で経済が急成長し、文化や宗教が活況を呈したのである。
 
 同時に、地震や台風などの天変地異や、それに起因する深刻な飢饉と疫病、果てしなく続く戦乱の恐怖と、まさに背中合わせのギリギリの日々であったに違いない。現実と格闘して生きている町衆には、来世の極楽往生を渇仰するよりも、現世での苦境からの脱出と社会の繁栄が重要であり、だからこそ日蓮の立正安国の教えに強く惹きつけられたのではないだろうか。
 
 日蓮宗各派は「法華経本門と迹門の勝劣」など教義の根幹にかかわる見解の相違で対立を続け批判を応酬していたが、競い合うことで相乗効果を生み、飛躍的に教線を拡大していった。弘教推進や信者の育成などで、有機的な組織が自然発生的に進化したと思われる。
 
 その中で、女性の強信者が少なくなかったことも重要である。法華経で説かれた女人成仏などの平等思想や苦難を克服した日蓮の生きざまが、乱世に生きる女性の心を打ったのであろう。先に紹介した近衛政家の娘や本阿弥光悦の母などの強靭で清らかな信仰の実践が後世に語り継がれている。
 
 当時の公家の日記でも「法華宗の繁昌、耳目を驚かすものなり」(中御門宣胤)や「法華の輩(略)京中に充満す」(九条尚経)などと驚きを持って語られている。「昔日北華録」という書物には「天文元年の頃、京都に日蓮宗繁昌して、毎月二ヶ寺三ヶ寺ずつ寺院出来し、京中おおかた題目の巷となる」と記されている。京都は町衆の弘教拡大によって広宣流布していたのである。
 
【法華一揆と一向一揆】
 両細川の乱で頻繁に戦場となり、将軍も管領もいない権力の空白地となった都で、町衆が自衛のため武装を余儀なくされたのも無理はない。文亀4年(1504)、細川政元が摂津守護代・薬師寺元一(元長の養子)の謀反を鎮圧する際に下京町衆を軍事徴発した報酬として地子(税)が免除された事件や、永正8年(1511)に細川澄元(政元の養子)が京都に攻め込んだ時に上京町衆が自衛軍を編成し、大規模な示威行軍(打ち廻り)を敢行したという。
 
 その後、大永7年(1527)の桂川の戦いを機に動乱が激しさを増し、年末から年明けにかけて10件もの市中の乱暴狼藉事件が公家の日記等に残されている。そしてその際に寺院の鐘を合図に数百人の町衆自警団が参集して武力鎮圧を図っていることが注目される。その中核を信仰心と組織力を兼ね備えた日蓮宗の若者が担ったと思われる。
 
 こうした武装する町衆が、その力を発揮したのが「題目の巷」と評された天文元年(1532)であった。その年の5月、京兆細川晴元(澄元の嫡子)が宿敵畠山氏の内紛に介入するにあたり、山科に本拠を置く本願寺に援軍を要請。10世証如(蓮如の曽孫)が畿内の門徒に激を飛ばすと、当時の武家が動員する兵力の10倍以上の軍勢が畠山軍を全滅させ、その勢いで堺に押し寄せて三好元長(長慶の父)を自害に追いやった。
 
 途方もない潜在能力に目覚めた門徒衆は大和国を焼き払い、晴元の居城も包囲してしまう。法主の証如も制御不能に陥る一向一揆の暴走に、東山を隔てて隣接する京都は恐慌に陥った。晴元から懇請を受けた日蓮宗の各寺は大同団結し、法華一揆を結成した。
 
 天文に改元した8月、数万の軍勢となった法華一揆は、20年前から緊急時のたびに行なっていた打ち廻りを再開して勢いをつけ、近郊の地侍たちも糾合して晴元軍や近江の六角定頼軍と合流し、山科本願寺を包囲した。記録を分析すると、全焼して陥落した本願寺の死者は意外にも少ないという。法華一揆勢が退路を開いたのかもしれない。証如らは摂津の石山に落ち延びた。石山本願寺はこれ以降、大規模な城塞への力を蓄えていく。
 
 前代未聞の宗教戦争は1年間続いた。復讐に燃える門徒の大軍と山崎や高槻、摂津富田、尼崎や池田などで死闘を繰り返したのである。和睦後も戦時体制は続いた。兵を収めたものの、洛中警護を怠ることは出来ない。地子未払いは継続され、周辺荘園の徴税代官請けも京を護った町衆が担った。裁判も自前で行なったという。幕府が武断政治を司るこの時代に、世界でも珍しい、大都市の「民衆自治」が実現した。奇跡といっても過言ではないだろうか。
 
 戦勝の熱狂と権力を追い払った達成感が慢心を誘ったのか、宗教的熱情による排他独善の言動が武家や公家との軋轢を生む。4年後の松本問答(比叡山僧侶と日蓮宗信者の私的宗論)を口実に、延暦寺の僧兵は細川晴元と六角定頼と共に強大な反法華一揆連合軍を糾合。京都に雪崩を打って攻め込んできた(天文法華の乱)。
 
 天文5年(1536)7月23日から28日までの激戦で市内のほとんどが焼失した。応仁の乱を上回る被害であったという。洛中21ヵ寺は全焼し、死者は1万人。僧侶や主な信徒は堺に避難した。9月にようやく入洛した晴元は寺院再建や弘教を禁じた。6年後に12代将軍足利義晴も帰京。天文16年(1547)に公式に赦され僧俗は京都に戻った。16ヶ寺まで復興する中で、武器を取って団結する「一揆」ではなく、武家や他宗と交渉するため「会合」という連合体を組織する方針に転換していった。
 
【織田信長と安土宗論】
 両細川の乱は晴元を破った三好長慶が終結させたが、その死後に後継者たちが13代将軍足利義輝を弑逆するなど混乱は最高潮に達し、宗教者にとって諫暁するべき国主が見当たらなかった。そんな時に彗星のように登場したのが織田信長である。
 
 永禄11年(1568)に義輝の弟・足利義昭(15代将軍)を奉じて入洛した信長の活躍は、ここでは詳述しない。比叡山焼き討ちや石山本願寺との死闘など、宗教の権威を微塵も恐れない信長は無神論者のように言われるが、桶狭間の戦いで熱田神宮に祈願し、長篠合戦では軍旗に「南無妙法蓮華経」の題目を掲げていた。
 
 本家筋にあたる織田敏定が、甲斐身延山久遠寺と京都本国寺を清洲城内で対論させるなど、熱心な日蓮宗の信徒であった。そのような家系に天文3年(1534)に生まれた信長は、幼少期の大事件・天文法華の乱を知っていただろう。だからこそ、天正7年(1579)の安土宗論を起こしたのではないだろうか。
 
 空前の賑わいを見せる安土は、まさに政治・経済・文化の中心であり、義昭を追放して室町幕府を滅亡させた信長は、今や誰もが認める国主であった。豪華絢爛な巨城安土城のお膝元に創建した浄厳院が、第2回目の『公場対決』の舞台となった。
 
 この有名な宗論も、松本問答と同じく僧侶に信者が議論を吹っかけた事件が契機となった。浄土宗浄蓮寺の霊誉玉念という老僧が安土城下で説法をしていたところに、日蓮宗信徒の2人が論難し、玉念が僧侶を連れてくるよう諭したのが発端である。
 
 宗論の当事者である妙満寺派の久遠院日淵によると、安土から堀秀政ら奉行衆の使いが京都に立て続けに到着して、「早々に安土に来て、浄土宗と問答するように」と命じ、「少しでも遅くなれば、ご命令に背く事になる」と念押ししたという。
 
 その日のうちに、頂妙寺日珖、常光院日諦、日淵らと、2人の信徒を折伏した普伝院日門らが慌ただしく出立。車軸が動くような雨の中を安土に到着した面々に、奉行衆3人が「問答に敗北した場合は、京都および織田家が治める分国の各寺院を破却する旨を認めよ。それが嫌なら立ち帰るが良い」と詰め寄り、日蓮宗側は「何事も上意のままに」と回答した。
 
 宗論のきっかけとなった日門(普伝)を「信長公記」では堺の油屋の当主の弟で妙国寺の僧と記すが、どうも日珖と混同されたようで、先の日淵の回想記に「最近帰伏した」とあり、普伝を祀る本妙寺(八幡市)の駒札にも「真言宗の僧として南光坊と称したが、永禄年間に法華宗に改宗した」と記されている。ただし、人格識見に秀でていたらしく、フロイス「日本史」に「その学問と権威を人々は大いに重んじた」と紹介されており、安土中の老若男女の群衆200人が説法を聴聞したという。
 
 5月27日、浄厳院に数千人が参集し宗論が始まった。浄土宗側が玉念、安土西光寺の聖誉貞安ら4人であったため、日蓮宗側に着座した普伝は仏殿の縁側から下に追いやられた。普伝の無念が偲ばれる。芝生で見守る聴衆のほとんどが浄土宗で、日淵は「籠の中の鳥」のようだったと回想している。信長によって手際よく指名された判定者は、南禅寺の鉄叟景秀、法隆寺の仙覚らであったが、折りから現地に来ていた因果居士という有髪の人物が急きょ加わった。
 
 対決の模様は「信長公記」と日淵の「安土問答実録」に加え、件の因果居士が「自筆安土問答」を記している。これらを照合すると、まず法華経で説かれる「阿弥陀仏」の解釈が争われ、念仏を包摂して説く法華経を、浄土宗の宗祖・法然が「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」と否定するのは矛盾ではないかと日蓮宗が難じた。次に法華経の開経である無量義経の「四十余年未顕真実」(法華経以前は真実を顕さずの意)を日珖が繰り返し突きつけたところ、貞安が「あとで話す」とはぐらかし、玉念と口論を始める始末だったという。
 
 日淵らが勝鬨を挙げて勝利を宣して立ち上がった時だった。突然、因果居士が「法華経以前に成仏を説いた経はある」と声を上げ、「華厳経と法華経は同意別名である。法華経の真理は華厳経にありと説いた聖徳太子を偽りというのか」と畳みかけた。これに気圧されて着座した日蓮宗側に、貞安が「未顕真実であるならば、法華経以前の経を廃棄するはず。ならば方座第四の『妙』の一字も捨てるのか」と投げかけた。
 
 これについて、天台が判じた「五時八教」の教相判釈で浄土三部経は第三の方等部に位置付けられるから、方座「第三」と言うべき所を「第四」と言ったことで日蓮宗側が混乱したという説がある。同時に、方等部で説く「蔵・通・別・円」の四教のうち「円教」が完全無欠の妙法であるとの教判を、貞安が「第四の妙」と言ったとの解釈もある。
 
 いずれにしても、「法華の『妙』を捨てぬのか」と質した貞安に対し、日蓮宗が混乱して答えられなかったため、判定者から敗北と結論づけられたようである。玉念が「勝った勝った」と二度叫ぶと鬨の声のような大歓声が起こった。立ち上がった玉念が日諦の袈裟を引きちぎった時、日淵が逆に奪い返そうとして大混乱となり、日蓮宗側は殺到した聴衆から散々に打擲され、法華経八巻は破り捨てられた。
 
 判定者でありながら浄土宗に助け舟を出した因果居士は、「上様より御内証あり」と手記している。忖度なのか事前の申し合わせがあったのかは分からない。
 
 日蓮宗の僧侶は本堂の西側にある三畳敷の部屋に強引に押し込められた。その後、取り押さえられた普伝と塩屋伝内(「信長公記」では伝介)が入ってきた。伝内は玉念に問答を挑んだ町人であった。
 
【信長の裁定】 
 時を移さず、織田信長は安土城から浄厳院へ出向いてきた。大広間で信長は、南禅寺の鉄叟景秀をねぎらって蘇東坡の杖を進呈し、2人の浄土僧に扇と団扇を贈って帰らせた。次に、日蓮宗の面々を呼び出すと、伝内に向かって「塩売りの町人の分際で世間を騒がせたのは不届き極まりない」と自ら断罪。即座に首を刎ねさせた。 
 
 信長は普伝を面前に引き据えて執拗に責め立てた。近衛前久が彼を讃嘆したことや、一般庶民から敬慕されたという世評を1つ1つあげつらって、言葉を極めて糾弾したのである。「名声を利用して法華宗に取り入り、地位と賄賂を得たのであろう」と詰る信長に、普伝は反駁することなく「法華経こそ真実の経典であると確信し、この春から帰依したのです」と言うにとどまった。信長は「法華経が良いことはお前に言われずとも知っている」と言い放ち、斬首を命じたという。(もう1人の町人建部紹智も堺で捕縛され首を斬られている)
 
 目の前で無残な処刑を見た3人の高僧は震え上がった。信長は日珖に「お前は油屋の弟だな。よく似ている」などと声をかけ「法華宗が非難されるのは他宗を攻撃するからだ」と諭したが、最後に「覚悟を決めるか宗旨を替えるか」と迫り、返事を聞かずに引き上げた。
 
 その後、罪一等減ぜられ起請文を提出することとなった。内容は、「一、浄土宗への敗北を認めること」「二、他宗への法論をしないと誓うこと」「三、現在の地位を辞すること」の3か条であった。別室には同行の僧俗数百人が押し込められており、彼らの無事を条件にするという理由で、日蓮宗は誓紙を差し出した。曼荼羅に血判を押させたという。この顛末を「信長公記」は「世人の物笑いの種となった」と酷評している。
 
 後世の日蓮宗門弟たちは、安土宗論を信長の謀略だと主張した。確かに、宗論は信長主導で催され、会場も浄土宗寺院であった。強引な裁定や手回しのよい起請文、偶然居合わせたとする因果居士の存在など、傍証にこと欠かない。信長にしてみれば、石山本願寺との抗争の渦中で、天文の法華一揆を再現させないために牙を抜く必要を認めたのかもしれない。戦国時代では武田信玄や今川氏親、大内義興らも領国内の宗論を禁じている。各宗の共存を乱す宗論を嫌ったのは信長だけでなかったのである。
 
 そのうえで私見を述べると、信長は日蓮の弟子たちを試したのでなかったか。北条時宗や足利義教のように家宰に任せるのではなく、日蓮が求めて止まなかった『公場対決』を自ら命じて実現させ、国主として宗門の最高峰と直接対面しているのだ。僧と俗2人を目の前で斬首させたのも、竜の口で現出した奇跡が再現されるかを確認したかったのかもしれない。しかし、日蓮宗は屈服し起請文を提出した。死罪や流罪から一歩も退かなかった日蓮の不惜身命の精神に、信長が触れることは無かった。
 
 フロイスの記述によれば、信長は宇宙の創造主を否定して、神仏への信仰を迷信として斥け軽蔑したという。また、武田信玄への書状で“第六天魔王”と自称したとも伝えている。本人の自覚はどうであったかはさておき、法華経をはじめ仏道を修行する者の前に立ちはだかる「天魔」となった信長は、その後は日蓮宗を弾圧することはなかったものの、上洛時の宿所として寺院を提供させるなど、屈服の姿勢を求め続けている。
 
 3年後の天正10年(1582)6月、織田信長は天下統一の途上で明智光秀の謀反で自害する。信長・信忠父子が討たれた宿所は本能寺と妙覚寺。ともに日蓮宗の伽藍である。安土宗論で宗教の正邪を無視し、強権を振るって裁断した信長の最期は、法華経の行者の生命を奪った権力者がどのような末路を迎えるのかを、厳粛に証明するものとなった。日蓮の滅後300年のことであった。(つづく)