吉田たかおのよしだッシュブログ

京都市会議員 (公明党)・吉田孝雄が日々感じたことを綴ります。

国主諫暁についての一考察(2)

2020.08.16 (Sun)
2.室町期の国主諫暁
 
【分裂と一揆の時代】
 鎌倉幕府滅亡(1333年)で王政復古が成ったものの、建武新政が3年で瓦解した後は、約60年にわたる南北朝時代という混乱期に陥った。朝廷や公家だけでなく、武家や庶民を含む、ありとあらゆる階層で分派抗争が繰り返された。この分裂のエネルギーが競い合って「遠心力」が増幅され、農業生産や貨幣経済が発展した。この時代に創生された大衆文化や生活様式などは21世紀の今にも息づいており、現代の日本社会の起源との評価もある。
 
 南北朝・室町・戦国と続く内乱に次ぐ内乱の時代では、町衆や農民も武器を取って戦った。山城国一揆や加賀一向一揆などが有名であるが、鎌倉時代に誕生した新仏教が庶民に定着し浸透していったことも特筆される。この時代は長期的な寒冷期で、前代に越えて自然災害や凶作が続出していたことが大きいと考えられる。
 
 なお、「一揆」と聞くと江戸時代に百姓がムシロ旗を掲げて蜂起する異議申し立てを連想しがちであるが、「自力救済」が浸透した室町時代から戦国乱世にかけては、朝廷や幕閣から惣村に至るまで合意形成のために衆議を重ねる仕組みが定着し、力を合わせて団結することを「一揆」と称していた。
 
 この分裂の時代、ご多分に漏れず日蓮の弟子たちも分派を繰り返した。日蓮入滅後、6人の本弟子(六老僧)が分担して活動していたが、教義解釈や運動論で分裂して、多くの流派に分かれて抗争して競い合っていたのである。
 
 日朗門流の日像が、文化や経済の中心である京都で布教を開始したのは永仁2年(1294)。奇しくもクビライが没した年である。この際に酒屋や土倉(金融業)などの富裕な商人(有徳人)が帰依したといわれる。日像は、延暦寺・東寺・仁和寺・南禅寺・相国寺などの諸大寺から迫害を受け、都から3度追放されるも3度帰還を果たす。これには一番弟子の大覚の活躍があったらしい。
 
 大覚は、藤原氏の長者・近衛経忠の子と(あるいは後醍醐天皇の皇子とも)伝わる公家に血縁を持つ真言宗の有力僧であったが、正和2年(1313)に日像の説法に共感し、大覚寺の地位を捨てて弟子入りした。この働き掛けもあって、建武新政で味方を1人でも欲しい後醍醐天皇から綸旨を得ることに成功し、法華宗号を許されて妙顕寺が勅願寺となった。
 
 応安元年(1368)、足利義満が元服した同じ年、明王朝が創建される。翌年に室町幕府3代将軍に就任した義満が明徳3年(1392)に南北朝統一。日明貿易が本格化し、北山文化が花開く活況期であったが、守護大名が領国支配を守護代に任せるなど、下剋上の下地ができつつある頃でもあった。
 
 その頃、延暦寺の学頭を務めた高僧・玄妙が法華宗(日蓮宗)に帰伏した後、名を日什(にちじゅう)と改め上洛した。日什は会津蘆名氏の出自であったためか、太政大臣二条良基らと対面した後、後円融天皇へ上奏し、「二位僧都」の位と「洛中弘法の綸旨」を賜った。永徳3年(1383)に豪商天王寺屋通妙の外護により、六条坊門室町に妙満寺を建立。日什門流は安土桃山期から江戸期にかけて京都の日蓮門流が直面した激流に直面しているが、明治維新後には日蓮主義を唱えた本多日生が出現して顕本法華宗を興し現在に至っている。
 
 日什は明徳2年(1391)、足利義満に「立正安国論」を提出した。天皇や太政大臣に続き、名実共に最高権力者である義満への諫暁も果たしたとはいえ、彼らを改宗させることは出来なかった。他宗の有力僧との『公場対決』も行われなかった。強大な権力の前では、京都での布教を許されたことで良しとするしか無かったかもしれない。大覚といい日什といい、公武の有力者との縁故を突破口として弘通を図ったのだが、そこに門閥に頼る身分社会の限界が垣間見えてしまうのは私だけだろうか。
 
【命がけの『国主諫暁』】
 この間、日蓮の直系である身延ではどうだったのか。日蓮から相承を受けた日興は、路線対立で身延山を離れて壇越南条時光の駿河国上野郷へ移り、富士大石寺を開創した。日蓮からの相承書で「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立されるべきなり。時を待つべきのみ」と託された精神を受け継ぎ、人材育成と東国中心の弘教活動を展開した。幕府と朝廷への諫暁は六老僧の中で唯一回を重ねて継続しており、幕府への申状は正応2年(1289)と元徳2年(1330)の2通が、朝廷に宛てたものは嘉暦2年(1327)の1通が今日まで伝わっている。
 
 元弘3年(1333)、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」など26条の遺誡置文を遺して日興が入滅した同じ年に鎌倉幕府が滅亡。3世の日目が74歳の高齢をおして後醍醐天皇への『国主諫暁』のため上洛を目指したが、美濃国垂井で病を得て亡くなる。古代の壬申の乱と近世の関ケ原の戦いの舞台という歴史回天の地での客死であった。
 
 申状を携えて日尊が入洛。のちに要法寺を建立するも首都での弘通は困難を極めた。もう1人の随行者日郷は大石寺に戻ったが、日行と跡目争いが勃発。本門戒壇の大御本尊を擁する大石寺であったが、分派で紛糾した結果、江戸期には要法寺の下風に立つなど苦境が続いたのである。
 
 室町幕府全盛期の6代将軍足利義教に敢然と諫暁したのは、「鍋冠り」の伝説を持つ日親である。応永34年(1427)に下総の中山法華経寺から大志を抱いて上洛した日親は辻説法に励み果敢な折伏(折破摧伏あるいは破折屈伏)を展開。摂津や九州で実績を残した後、永享11年(1439)に花の御所で義教の行列を遮って上訴に及ぶという暴挙に出た。独裁者の逆鱗に触れた日親は政所執事伊勢貞国の邸で執事代・蜷川親当の尋問を受ける。日親は舌鋒鋭く法華一乗を訴え他宗を批判したが、一休宗純の説話にも登場する温和な親当(通称・新右衛門)の裁量によって釈放された。
 
 過激な言動は熱狂的な支持と恐怖感を触発し反発を生む。激烈な折伏を危険視した本山の貫主日有の告発などにより、日親は自著「立正治国論」提出の直前に捕縛され獄舎に入牢。1年後に出獄したが、舌を切られたり熱した鍋を被せられるなど壮絶な拷問に耐えたという。その真偽は不明だが、法華経の行者たらんと決意し、行動を全うしたことは間違いない。日親の不惜身命の戦いは、明治期に日蓮主義に傾倒した高山樗牛が発表した短編「鍋鐺日親」でひろく人口に膾炙した。
 
 樗牛の文章を現代語に訳して紹介したい。「人を殺した数や国を獲った広さなどで人物の大小を語ることは、少なくとも我らにとっては無意義である。その人の人間としての力量が深く強く現れたかどうか、そこに必ず、人生の真の大いなる事実がある。私の心情を動かすものは、この事実以外にはない」と。
 
 日親の入獄時に知遇を得た本阿弥清信が本法寺を寄進する。清信は幕府に奉行衆として仕えた松田家から刀剣鑑定などを生業とする本阿弥家に婿入りした人物で、本光との法名を日親から授かるなど強盛な信仰に励んだ。彼の曽孫が洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いた本阿弥光悦である。
 
 京都で教線が拡大する中で、日親のように法華経を信じない者を謗法と断じ、布施や供養を一切受けず、謗法者に説法等も施さない(不受不施)と主張する純潔派よりも、公武の権力者をその対象から外す現実派が大勢を占めるようになった。この「王侯除外制」によって、権力者の庇護や支援を受容し、教団の維持を優先する方針が基調となっていった。比叡山延暦寺大衆の弾圧から一致団結して対抗する必要もあって、寛正7年(1466)に京の日蓮宗門流が一堂に会し盟約を結んだ(寛正の盟約)が、これには日親など一部の流派が連署しなかったという。
 
 応仁の乱(1467~1478)で天下は大混乱に陥り、真っ二つに分かれた将軍家を抱えて有力守護が全国津々浦々で争闘を繰り返すサバイバルの中で、時代は戦国乱世に突入する。大乱の渦中、関白近衛房前が日蓮宗本満寺に帰依し公家社会を驚かせた。その子政家は23歳で亡くなった娘の臨終の姿に感銘を受け法華経への信仰を強めたと、日記「後法興院記」に記している。
  
【細川政元と文亀宗論】 
 大乱後10数年を経て、管領細川政元が幕府中枢の実権を握り、明応2年(1493)に10代将軍足利義材を追放するクーデターを決行。この明応の政変以降、細川管領家(右京太夫の官名から京兆という)が将軍を廃立する京兆専制が始まった。
 
 この時代は、将軍が京都の室町殿に安住できず周辺の有力大名を頼る流浪が繰り返されるのだが、もう1つ顕著なのが公家や武家に日蓮宗が浸透しつつある事実である。明応5年(1496)に当時内大臣であった二条尚基が日蓮宗に帰依したとの噂が流れた。5年後の正月に前関白鷹司政平の子息が10歳にして得度したが、それが日蓮宗であったことが大きな反響を呼んだ。南都北嶺の由緒ある寺院の門跡として、皇族や摂関家の子弟が入室する事例は平安時代から枚挙にいとまがないが、そこに新興の日蓮宗が参入したのである。自身も一条家出身である興福寺門跡尋尊は日記で「無念なり」と嘆いている。
 
 この年(1501)は後柏原天皇が即位し、辛酉革命に当たるため3月に「文亀」と改元したが、5月に知られざる宗教的事件があった。熱心な日蓮宗信者である摂津国守護代・薬師寺元長が上京の自邸に京兆細川政元を迎え、日蓮宗本国寺の日了と浄土宗妙講寺の団誉玉翁の法論を主催したのである。浄土宗で「文亀真偽決」と呼ばれる文亀宗論は、まさに国主たる京兆が臨席した『公場対決』にほかならない。
 
 三条西実隆の日記「実隆公記」の5月24日条に「右京太夫(細川政元)の前で日蓮宗と念仏宗の論議問答があり、翌日の風聞では日蓮宗は雌伏(屈服)した」と伝えられているが、近衛政家の「後法興院記」では全く逆の事情が活写されている。
 
 この日、「薬師寺の宿所において京兆(細川政元)の前で本国寺と浄土宗妙講寺の宗論があるらしい」と記すのみであったが、翌25日に本国寺より僧2人の使いがあり、「当宗が問答に勝った」との報告を受けたという。同じ日、本満寺の住職が来て問答の詳細が語り合われた。そして27日には、「細川京兆が本国寺に向かった」との事実を記し、これを「24日の宗論が殊勝なので授法のため」であり、「一宗の大慶これにしかず。ようやく相当なる流布の時節か」と喜んでいるのである。
 
 これを読む限り、政元が法華経に帰依したことが伺えるが、果たしてどうであろうか。たしかに、この2年後に日了が僧正に任官されるなど日蓮宗は躍進を続けているのであるが、その一方で、玉翁も政元の支援を受けて荒廃していた寺院を再建している。そのうえ、越後上杉氏に出自を持つ玉翁は、後柏原天皇によって「団誉」の勅号を賜っている。これらから考えられるのは、この対決で政元は明確な勝敗を判定しなかったのではないかということである。2人の公家の正反対の記述からもそれが伺える。
 
 お互いの顔を立てる折衷案は世俗ではよくある話である。自力救済の中世で衆議された合意も、妥協の産物が少なくなかったに違いない。しかし、日蓮が身命を賭して求め続けた『公場対決』は宗教の正邪を公式に判定することだったはず。であるならば日蓮門下の僧俗は潔しとせずに、明確な決着を求めて異議申し立てをするべきではなかったか。ところが、そのような記録は伝わっていない。権力側も宗門の側も厳格な「覚悟」の無いまま、尻すぼみのように終わってしまった。こうして、初めての『公場対決』は歴史に埋もれてしまったのである。
 
 国主たる京兆の中途半端な姿勢は、他でもない武家にとって最も重大な家督相続にも大きな禍根を残した。修験道に傾倒した政元は女性を近づけなかった。そのため実子が無く3人の養子を迎えたのであるが、永正4年(1507)に家臣に暗殺されてしまう(永正の錯乱)。政元の跡目を争った血で血を洗う戦いに端を発した20年以上の争乱を両細川の乱という。この間、全国各地で戦乱が繰り返され、将軍どころか管領も都に住まうことが叶わず、近江や堺で対峙するという異常事態が続き、幕府の権威は地に堕ちた。文亀宗論は、まさに室町幕府の混乱と衰退を象徴する出来事と言えるのではないだろうか。(つづく)