2020.08.16 (Sun)
コロナ禍との戦いで、かつてない多忙な日々を送る中、やむを得ず「在宅ワーク」が増え、必要に迫られて、乱雑であった書棚を数年ぶりに整理することが出来た。
それを機に、時間の合間を縫って「立正安国論」「開目抄」「撰時抄」も再読・精読し、改めて21世紀の『国主諫暁』の重大な使命に、身の引き締まる思いを新たすることができた。
お盆休みを期して研究書を取り寄せるなど、自分なりに『国主諫暁』を研究したところ、日蓮門下が室町期と戦国期(安土桃山期)と江戸初期に、3度の『公場対決』を、国主立会いのもとで敢行していたことが分かった。
この「発見」は様々な示唆に富むものと思うので、拙い「考察」として発表して、心ある方々と共有したいと考え、ブログにアップさせて頂くこととなった。長い文章になるため、数回に分割しての掲載になることご了承願いたい。なお、考察文のため、敬称を略させて頂いている。
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はじめに
【鎌倉時代の日本】
仏教が伝来して700年、鎌倉時代の日本は大地震などの天変地異が続出し、飢饉や疫病によって人心が荒廃していた。そして、困窮する民を救済するはずの朝廷や幕府など支配層は、保身と野心に身を焦がして内訌を繰り返していた。
同じ時期、ユーラシア大陸ではモンゴルが領土を拡大する中で過去に例を見ない虐殺や文明破壊が展開されていた。チンギス・ハンの孫クビライの即位で東アジアの風雲は急を告げ、高麗が降伏し南宋も滅亡寸前、まさに風前の灯火であった。これらの情報は日宋貿易のネットワークや漂泊民と言われる遊行者などによって、列島を駆け巡っていたと思われる。国内情勢の打開が見通せない中、他国からの侵略の足音が着実に迫っていたのである。
鎌倉幕府は、社会的な動揺を抑え人心を安定させる狙いもあり、最高峰の文化や知性の導入に腐心。建長寺蘭渓道隆などの渡来僧を招聘し、精神を修養する禅宗の教えを手厚く保護していた。同時に、鑑真の流れを汲む歴史と伝統を重んじる律宗が、西大寺叡尊や極楽寺忍性良観などの慈善活動で感謝と尊敬を集め、社会秩序の維持を期待されていた。
当然のことながら、平安時代の仏教界をリードした比叡山延暦寺(天台宗)と高野山金剛峯寺(真言宗)が深く根を下ろし、天変地異や疫病など災厄を除く密教の修法が人びとの信仰の基調となっていた。奈良時代に国家宗教として栄えた南都六宗も健在であり、700年続いた宗教権威を利用した民衆支配が揺るぐことは誰も考えられなかったと言ってよい。
一方で、当時の東アジアの政界や仏教界の理解では、11世紀半ばが釈迦滅後二千年を超え、仏法の功力が失われる「末法」が到来したとされていた。天皇親政から摂関政治、院政へ移行する一方、武士が台頭する時期にあたる。価値観が揺れ動く社会不安の中、「世も末」の末法思想が蔓延し、来世の極楽往生を希求する貴族や困窮民にこたえる法然らが説く念仏の教えが燎原の火のごとく一世を風靡。それとともに、一遍が踊り念仏で庶民層に爆発的に拡大していた。その中を、孤高の布教活動に邁進していたのが法華経こそ唯有一仏乗と説く日蓮であった。
日蓮と言えば、辻説法で荒々しい他宗批判を展開したという印象が強いが、八万法蔵の仏典の研さんを極めた精緻な哲理を基調にしつつ、大地に根ざした生活者の実感に即した1対1の対話を重視していたであろうことは、現代に残る膨大な消息文からも窺える。深遠な思想と豊かな人間性で着実に信者を拡大していたが、幕閣はもちろん地頭など地域有力者からの支援や助力を受けることはほとんどなく、文字どおり裸一貫での言論闘争を展開していた。
【日蓮が求めた『公場対決』】
大きな特徴を2つ挙げたい。1つは、末法では法華経への帰依以外は成仏なしとの確信で他宗との妥協を排した点、もう1つが国主にそれを強く求めたという点である。これを『国主諫暁』といい自身も迫害に屈せず貫くとともに、弟子にも厳命した。
日蓮は「撰時抄」で自ら3度の『国主諫暁』を敢行したと述べ、それを「三度の高名」と表明した。3度とは、文応元年(1260)に前執権北条時頼に「立正安国論」を提出したこと、文永8年(1271)の竜の口法難と佐渡への流罪、そして赦免され鎌倉に戻った同11年(1274)の平左衛門尉頼綱(北条時宗執事)との対峙をいう。しかし、結果として幕府と折り合うことはなく決裂に至った。やむなく日蓮は「三度国を諫めんに用いずば去るべし」(種種御振舞御書)との「礼記」の故事に基づき、鎌倉を去り甲斐の国身延の山中に草庵を結ぶ。人材育成に基軸を移し、弟子に末法の法華弘通(広宣流布)を託したのであった。
日蓮は3度に及ぶ『国主諫暁』で、公けの場での法論(問答あるいは宗論ともいう)を強く望み、果たせなかった。ところが歴史を紐解くと、この『公場対決』はその後3度実行されている。室町時代と戦国時代そして江戸時代に各1度、いずれも当時の政治の中心地で最高権力者のもとで行われ、勝敗が判決されているのである。
1度目は文亀元年(1501)、応仁の乱後の京都で管領細川政元のもと行われた文亀宗論。2度目は天正7年(1579)に天下人織田信長が築いた安土城下で行われた有名な安土宗論。3度目は慶長13年(1608)に江戸城で大御所徳川家康と将軍秀忠臨席のもと行われた慶長宗論である。
全て日蓮宗と浄土宗の宗論であったことも興味深い。「立正安国論」で「かの一凶を禁ぜんには」と指弾した念仏との対決を、後世の弟子たちが敢行したことになる。
国主が立ち会った3度の『公場対決』の模様はどんなものだったのだろうか。自分なりに資料を収集したので紹介したい。そしてそれが、その後の歴史にどんな影響をもたらしたのかについて、考察したいと思う。
1.日蓮の国主諫暁
【「立正安国論」提出】
まず、日蓮が当時の最高権力者である鎌倉幕府5代執権北条時頼らを諫暁した模様を概説したい。前述のように、当時は異常気象や大地震などの天変地異が相次ぎ、大飢饉・火災・疫病が続発していた。特に、正嘉元年(1257)8月に鎌倉地方を襲った大地震を機に、人々の不幸の根本原因を明らかにし根絶する道を示すためとして、日蓮は「立正安国論」を時の最高権力者であった北条時頼に提出した。文応元年(1260)7月16日のことである。
第1回の『国主諫暁』である「立正安国論」では、天変地異が続いている原因は、国中の人々が正法に背いて邪法を信じているからであると説き、悪法への帰依を止めて正法を信受しなければ、経文に説かれている三災七難の中で自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)が起こると警告し、速やかに正法に帰依するよう諫めた。
三災七難とは、穀貴(飢饉による穀物の高騰)・兵革(戦乱)・疫病(伝染病)の3種の災いと、星宿変怪難(星の運行の混乱)・非時風雨難(季節外れの風雨災害)などの7種の災難をいう。
「立正」とは、人々が正法を信仰することで生命尊厳の理念が社会を動かす基本の原理として確立されることであり、「安国」とは、社会が平和で繁栄して人々の生活の安穏を実現することである。「国」とは、権力を中心にした統治機構という面にとどまらず、自然環境の国土も含まれる。それは、日蓮自身の真筆で国の字を「国構えに王」だけでなく、「国構えに民」を用いていることからも伺える。
そのうえで、「詮ずるところ、天下泰平・国土安穏は君臣のねがう所、土民の思う所なり。国は法に依ってさかえ、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば、仏を誰か崇む可き、法を誰か信ず可きや。まず国家を祈りて、すべからく仏法を立つべし」とあるように、時の主権者が法の邪正を明らかにすることこそ政治の肝要であると訴えたのである。
そして最後に、日蓮は「すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を禱らん者か」と論じた上で、「ただ我が信ずるのみに非ず。また他の誤りをも誡めんのみ」と結論し、『国主諫暁』に身命を賭す自身の覚悟を表明して擱筆している。
なお、日蓮は国主の在り方として「王は民を親とし」(上野殿御返事)と述べ、「守護国家論」では「民衆の嘆き」を知らない国主は悪道に堕ちると断言している。この確信で、日蓮は言葉を尽くして諫暁したのである。
【竜の口の法難】
第2と第3の『国主諫暁』の模様は、建治2年(1276)に著した「種種御振舞御書」で克明に回想されている。文永5年(1268)に蒙古から国書がもたらされたのを機に、日蓮は幕府首脳や有力寺院11ヶ所に書状を送った。8代執権北条時宗には「諸宗を御前に召し合わせ仏法の邪正を決し給え」と諫め、道隆や良観らに「対決」を迫ったのである。
ところが弟子たちから伝わる風聞は、評定所の評議で「日蓮の首を刎ねるべきか。鎌倉から追放するべきか」が議論され、弟子檀那等に対しては「所領を没収して首を斬れ。或いは牢に入れるか遠流するべき」等との意見が出たという。
動揺する門下に、「我が弟子は一人も臆してはならない。法華経を信じて大難に遭ったことで退転するのは、沸かせた湯に水を入れるようなものだ。各々、思い切りなさい。末法に法華経を流布する我が一門は、迦葉・阿難や天台大師・伝教大師にも優れている。わずかの小島の主から脅されても恐れてはならない」と断固たる決意を打ち込んだ。
3年後の文永8年9月、日蓮は評定所へ召還され、平頼綱から尋問を受ける。頼綱は念仏者や真言師等からの告発を取り上げ、日蓮が「故最明寺入道(北条時頼)殿や極楽寺入道(北条重時)殿が無間地獄に堕ちた」「建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払え」また「道隆上人・良観上人等の首を刎ねよ」と主張したことの真偽を問い質した。
日蓮は臆すことなく首肯し、時頼らの存命中から「無間地獄に堕ちる」と警告しており、すべて日本国のことを思っての発言であると訴えた。そのうえで、良観らを一堂に集めて正邪を決するよう求め、それをせずに処罰すると北条一門の同士討ちが発生し、蒙古からの侵略に遭うと断言。頼綱は怒り狂うだけであった。
結果は2日後に出された。9月12日、頼綱が数百人の兵士を率いて草庵に乱入したのである。経巻で殴打するなど狼藉の限りを尽くすのを目の当たりにした日蓮が「何と面白いことか。平左衛門尉が物に狂う姿よ。あなた方は今、日本国の柱を倒しているのだ」と大音声で叫ぶと、頼綱や兵士たちはひるんだという。
連行される途中、鶴岡八幡宮で馬から降り「八幡大菩薩は諸天善神ではないのか。私は日本第一の法華経の行者である。身には一分の過ちもない。大蒙古国が日本国を攻めようとしている今、天照太神・八幡大菩薩が安穏としてよいはずがない。法華経の行者を護るとの誓いを果たすべきではないか」と叱咤した。
竜の口の刑場に着くと、駆け付けた弟子の四条金吾が「只今なり」と涙を流した。日蓮が「不覚の殿方かな。これほどの悦びを笑いなさい。いかに約束を違えられるのか」と諭したその刹那であった。江の島の方から月のように光った物が鞠のようになって、東南の方角から西北の方角へ輝き渡ったのである。夜なのに人々の顔がはっきりと見えた。太刀取りは目が眩んで倒れこみ、兵士どもは恐れて逃げ出し、馬から下りて畏まったり、馬上でうずくまっている。
日蓮は、「どうされたのか殿方ども。これほど大禍ある罪人から遠のくのか。近くまで寄って来られよ。寄って来られよ」と声高に叫んだが、駆け寄る者もいない。「首を急いで斬るがよい。夜が明けてしまったら見苦しいではないか」と呼びかけても何の返事も無かったという。これが、第2の『国主諫暁』にあたる竜の口の法難である。
その後、1ヶ月近く相模国依智で待機を余儀なくされたのは、事後の処遇の評議で紛糾したことによる。門下が鎌倉周辺で放火や殺人事件を起こしたとの流言の是非が問われたこともあるが、頼綱の独断を知った北条時宗が緊急の命令書を追加発行したことも大きかった。それは「此の人は無罪である。赦さねば後悔するだろう」との内容であったという。
同書では、罪を減ぜられて佐渡島へ流罪となったこと、現地での極限の生活と次々に起こる危難、100人を超える他宗僧侶などとの塚原問答の様子、そして二月騒動の勃発で「自界叛逆難」が現実となったことなども詳細に語られているが、重要なのは極限の逆境にありながら、「開目抄」「観心本尊抄」などの重書を著し、末法万年の広宣流布を志向した教義を確立したことである。ドイツの詩人シラーの「一人立てる時に強き者は真正の勇者なり」との名言が心に迫る。
【最後の『国主諫暁』】
文永11年(1274)に幕府の命で鎌倉に呼び戻された日蓮は、4月8日に平頼綱と対面した。これが3度目にして最後の『国主諫暁』となる。執権時宗の代理人たる頼綱らは一転して威儀を和らげて礼儀正しく接し、仏教諸宗の法門について若干の質疑をしていたが、最後に「大蒙古国はいつ攻めて来るのだろうか」と問うた。日蓮は「今年中であることは間違いない」と答え、真言をはじめ諸宗の調伏(呪詛)の祈祷を続ければ法華経に説く「還着於本人(げんちゃくおほんにん)」という原理によって自らの滅亡を招いてしまうと、言葉を尽くして諫暁した。
しかし、幕府の基本方針は変わらなかった。どこまでも一宗一派に偏らない全宗派の祈祷調伏に拘泥したのである。法華経に限定し他を排せという日蓮と折り合うことは無かった。これはその後のわが国の権力者が一貫して変わらず取り続ける姿勢である。
なお、平頼綱との対決で日蓮が述べた「王地に生れたれば身をば随えられ奉るやうなりとも、心をば随えられ奉るべからず(王の権力が支配する地に生まれたのであるから、身は従えられているようでも、心まで従えられてはならない)」(撰時抄)という言葉は、ユネスコが世界人権宣言20周年を期して古今の名言を集めた「人間の権利」という語録に収録されている。
日蓮は配流先の佐渡で「日蓮を用いぬるとも、悪しく敬わば国亡ぶべし」と明言している。間違った用い方をしたら亡国となるとの意である。日蓮は一等地に寺院を寄進すると懐柔してきた幕府と妥協せずに身延に入山したが、さらなる罪に問われることなく正式に赦免された。弟子檀那たちも幕命による弾圧を被ることはなかった。
鎌倉幕府は日蓮の諫言を採用しなかった。それはとりもなおさず悪用しなかったということになる。結果的に、2度に渡る蒙古の襲来を撃退し、かろうじて一国の滅亡を回避することができた一因であると言えよう。そう思うと、田中智学らの「日蓮主義」をイデオロギーとして戦争遂行に利用した昭和の軍部政府が、大日本帝国の滅亡を招いた歴史的事実に粛然とせざるを得ない。
とはいえ、蒙古への再三の防備強化や激化する恩賞問題、朝廷の両統迭立による紛糾など、想像を絶する心身の負担に苛まされた北条時宗は32歳の若さで病死。得宗家執事として一時全盛を極めた平頼綱は「平禅門の乱」で一族誅殺されている。三度目の『国主諫暁』で訴えた「還着於本人」そのままの姿と言ってよい。財政難や災害等の対策で疲弊し統治能力を失った鎌倉幕府が、承久の乱の再来を期して派遣した武将足利尊氏や新田義貞の裏切りに遭って滅亡したことは、歴史の必然であると言える。日蓮滅後51年のことであった。
【像法時代の『公場対決』】
さて、日蓮が『公場対決』にこだわった理由は何か。それは、末法に先駆ける像法時代(釈迦滅後一千年から二千年までの期間)に中国と日本で行われた宗論があったからである。
まず、中国南北朝から隋代に活躍した天台大師智顗(ちぎ)は、南朝陳の至徳3年(585)に陳朝5代皇帝(陳叔宝)の御前で全中国最高峰の僧正や僧都ら百余人(南三北七の大師という)と対決。法論の結果、法華第一が満天下に証明された。これにより、陳を降伏させて中国を統一した隋も、その後継たる唐も、天台宗を中心とした仏教を国の根幹に置いた。隋唐時代に絢爛たる文化の華が咲き誇った淵源と言われているのである。
次に、平安時代の伝教大師最澄は、延暦21年(802)に神護寺に行幸した桓武天皇の前で、南都六宗(華厳宗・法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・律宗)七寺の14人の碩学と対論。日蓮の「報恩抄」によると、最澄の批判に対し六宗の学者は一言も答えることができず、天皇の勅宣により14人は「承伏の謝表」を奉ったという。最澄は遣唐使から帰国後、日本天台宗を開き比叡山に大乗戒壇を建立した。この『公場対決』が王朝文化の花開く400年もの平安な時代の礎を築く要因となったと言えるのではないだろうか。
このように、仏法の正邪を時の君主が自ら明らかにすることが、天下泰平・国土安穏のため極めて重大なことであると確信して、日蓮は『公場対決』を求め続けたのであるが、行敏や強仁と名乗る僧から法論を申し込まれたときには、私的な問答は喧嘩のもとになるので、朝廷や幕府に奏聞して公的な場にて対論すべきであると返答している。(佐渡で行われた塚原問答では幕府の守護代本間重連が臨席していた)
これは、竜の口法難にお供した四条金吾が、天台宗の僧・竜像房と日蓮の弟子三位房が鎌倉桑ヶ谷で行なった問答に立ち会い、遺恨の残る争闘に巻き込まれ主君の勘気を蒙って謹慎を余儀なくされた事実からも、十分に頷ける見識であると考える。(つづく)
それを機に、時間の合間を縫って「立正安国論」「開目抄」「撰時抄」も再読・精読し、改めて21世紀の『国主諫暁』の重大な使命に、身の引き締まる思いを新たすることができた。
お盆休みを期して研究書を取り寄せるなど、自分なりに『国主諫暁』を研究したところ、日蓮門下が室町期と戦国期(安土桃山期)と江戸初期に、3度の『公場対決』を、国主立会いのもとで敢行していたことが分かった。
この「発見」は様々な示唆に富むものと思うので、拙い「考察」として発表して、心ある方々と共有したいと考え、ブログにアップさせて頂くこととなった。長い文章になるため、数回に分割しての掲載になることご了承願いたい。なお、考察文のため、敬称を略させて頂いている。
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はじめに
【鎌倉時代の日本】
仏教が伝来して700年、鎌倉時代の日本は大地震などの天変地異が続出し、飢饉や疫病によって人心が荒廃していた。そして、困窮する民を救済するはずの朝廷や幕府など支配層は、保身と野心に身を焦がして内訌を繰り返していた。
同じ時期、ユーラシア大陸ではモンゴルが領土を拡大する中で過去に例を見ない虐殺や文明破壊が展開されていた。チンギス・ハンの孫クビライの即位で東アジアの風雲は急を告げ、高麗が降伏し南宋も滅亡寸前、まさに風前の灯火であった。これらの情報は日宋貿易のネットワークや漂泊民と言われる遊行者などによって、列島を駆け巡っていたと思われる。国内情勢の打開が見通せない中、他国からの侵略の足音が着実に迫っていたのである。
鎌倉幕府は、社会的な動揺を抑え人心を安定させる狙いもあり、最高峰の文化や知性の導入に腐心。建長寺蘭渓道隆などの渡来僧を招聘し、精神を修養する禅宗の教えを手厚く保護していた。同時に、鑑真の流れを汲む歴史と伝統を重んじる律宗が、西大寺叡尊や極楽寺忍性良観などの慈善活動で感謝と尊敬を集め、社会秩序の維持を期待されていた。
当然のことながら、平安時代の仏教界をリードした比叡山延暦寺(天台宗)と高野山金剛峯寺(真言宗)が深く根を下ろし、天変地異や疫病など災厄を除く密教の修法が人びとの信仰の基調となっていた。奈良時代に国家宗教として栄えた南都六宗も健在であり、700年続いた宗教権威を利用した民衆支配が揺るぐことは誰も考えられなかったと言ってよい。
一方で、当時の東アジアの政界や仏教界の理解では、11世紀半ばが釈迦滅後二千年を超え、仏法の功力が失われる「末法」が到来したとされていた。天皇親政から摂関政治、院政へ移行する一方、武士が台頭する時期にあたる。価値観が揺れ動く社会不安の中、「世も末」の末法思想が蔓延し、来世の極楽往生を希求する貴族や困窮民にこたえる法然らが説く念仏の教えが燎原の火のごとく一世を風靡。それとともに、一遍が踊り念仏で庶民層に爆発的に拡大していた。その中を、孤高の布教活動に邁進していたのが法華経こそ唯有一仏乗と説く日蓮であった。
日蓮と言えば、辻説法で荒々しい他宗批判を展開したという印象が強いが、八万法蔵の仏典の研さんを極めた精緻な哲理を基調にしつつ、大地に根ざした生活者の実感に即した1対1の対話を重視していたであろうことは、現代に残る膨大な消息文からも窺える。深遠な思想と豊かな人間性で着実に信者を拡大していたが、幕閣はもちろん地頭など地域有力者からの支援や助力を受けることはほとんどなく、文字どおり裸一貫での言論闘争を展開していた。
【日蓮が求めた『公場対決』】
大きな特徴を2つ挙げたい。1つは、末法では法華経への帰依以外は成仏なしとの確信で他宗との妥協を排した点、もう1つが国主にそれを強く求めたという点である。これを『国主諫暁』といい自身も迫害に屈せず貫くとともに、弟子にも厳命した。
日蓮は「撰時抄」で自ら3度の『国主諫暁』を敢行したと述べ、それを「三度の高名」と表明した。3度とは、文応元年(1260)に前執権北条時頼に「立正安国論」を提出したこと、文永8年(1271)の竜の口法難と佐渡への流罪、そして赦免され鎌倉に戻った同11年(1274)の平左衛門尉頼綱(北条時宗執事)との対峙をいう。しかし、結果として幕府と折り合うことはなく決裂に至った。やむなく日蓮は「三度国を諫めんに用いずば去るべし」(種種御振舞御書)との「礼記」の故事に基づき、鎌倉を去り甲斐の国身延の山中に草庵を結ぶ。人材育成に基軸を移し、弟子に末法の法華弘通(広宣流布)を託したのであった。
日蓮は3度に及ぶ『国主諫暁』で、公けの場での法論(問答あるいは宗論ともいう)を強く望み、果たせなかった。ところが歴史を紐解くと、この『公場対決』はその後3度実行されている。室町時代と戦国時代そして江戸時代に各1度、いずれも当時の政治の中心地で最高権力者のもとで行われ、勝敗が判決されているのである。
1度目は文亀元年(1501)、応仁の乱後の京都で管領細川政元のもと行われた文亀宗論。2度目は天正7年(1579)に天下人織田信長が築いた安土城下で行われた有名な安土宗論。3度目は慶長13年(1608)に江戸城で大御所徳川家康と将軍秀忠臨席のもと行われた慶長宗論である。
全て日蓮宗と浄土宗の宗論であったことも興味深い。「立正安国論」で「かの一凶を禁ぜんには」と指弾した念仏との対決を、後世の弟子たちが敢行したことになる。
国主が立ち会った3度の『公場対決』の模様はどんなものだったのだろうか。自分なりに資料を収集したので紹介したい。そしてそれが、その後の歴史にどんな影響をもたらしたのかについて、考察したいと思う。
1.日蓮の国主諫暁
【「立正安国論」提出】
まず、日蓮が当時の最高権力者である鎌倉幕府5代執権北条時頼らを諫暁した模様を概説したい。前述のように、当時は異常気象や大地震などの天変地異が相次ぎ、大飢饉・火災・疫病が続発していた。特に、正嘉元年(1257)8月に鎌倉地方を襲った大地震を機に、人々の不幸の根本原因を明らかにし根絶する道を示すためとして、日蓮は「立正安国論」を時の最高権力者であった北条時頼に提出した。文応元年(1260)7月16日のことである。
第1回の『国主諫暁』である「立正安国論」では、天変地異が続いている原因は、国中の人々が正法に背いて邪法を信じているからであると説き、悪法への帰依を止めて正法を信受しなければ、経文に説かれている三災七難の中で自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)が起こると警告し、速やかに正法に帰依するよう諫めた。
三災七難とは、穀貴(飢饉による穀物の高騰)・兵革(戦乱)・疫病(伝染病)の3種の災いと、星宿変怪難(星の運行の混乱)・非時風雨難(季節外れの風雨災害)などの7種の災難をいう。
「立正」とは、人々が正法を信仰することで生命尊厳の理念が社会を動かす基本の原理として確立されることであり、「安国」とは、社会が平和で繁栄して人々の生活の安穏を実現することである。「国」とは、権力を中心にした統治機構という面にとどまらず、自然環境の国土も含まれる。それは、日蓮自身の真筆で国の字を「国構えに王」だけでなく、「国構えに民」を用いていることからも伺える。
そのうえで、「詮ずるところ、天下泰平・国土安穏は君臣のねがう所、土民の思う所なり。国は法に依ってさかえ、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば、仏を誰か崇む可き、法を誰か信ず可きや。まず国家を祈りて、すべからく仏法を立つべし」とあるように、時の主権者が法の邪正を明らかにすることこそ政治の肝要であると訴えたのである。
そして最後に、日蓮は「すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を禱らん者か」と論じた上で、「ただ我が信ずるのみに非ず。また他の誤りをも誡めんのみ」と結論し、『国主諫暁』に身命を賭す自身の覚悟を表明して擱筆している。
なお、日蓮は国主の在り方として「王は民を親とし」(上野殿御返事)と述べ、「守護国家論」では「民衆の嘆き」を知らない国主は悪道に堕ちると断言している。この確信で、日蓮は言葉を尽くして諫暁したのである。
【竜の口の法難】
第2と第3の『国主諫暁』の模様は、建治2年(1276)に著した「種種御振舞御書」で克明に回想されている。文永5年(1268)に蒙古から国書がもたらされたのを機に、日蓮は幕府首脳や有力寺院11ヶ所に書状を送った。8代執権北条時宗には「諸宗を御前に召し合わせ仏法の邪正を決し給え」と諫め、道隆や良観らに「対決」を迫ったのである。
ところが弟子たちから伝わる風聞は、評定所の評議で「日蓮の首を刎ねるべきか。鎌倉から追放するべきか」が議論され、弟子檀那等に対しては「所領を没収して首を斬れ。或いは牢に入れるか遠流するべき」等との意見が出たという。
動揺する門下に、「我が弟子は一人も臆してはならない。法華経を信じて大難に遭ったことで退転するのは、沸かせた湯に水を入れるようなものだ。各々、思い切りなさい。末法に法華経を流布する我が一門は、迦葉・阿難や天台大師・伝教大師にも優れている。わずかの小島の主から脅されても恐れてはならない」と断固たる決意を打ち込んだ。
3年後の文永8年9月、日蓮は評定所へ召還され、平頼綱から尋問を受ける。頼綱は念仏者や真言師等からの告発を取り上げ、日蓮が「故最明寺入道(北条時頼)殿や極楽寺入道(北条重時)殿が無間地獄に堕ちた」「建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払え」また「道隆上人・良観上人等の首を刎ねよ」と主張したことの真偽を問い質した。
日蓮は臆すことなく首肯し、時頼らの存命中から「無間地獄に堕ちる」と警告しており、すべて日本国のことを思っての発言であると訴えた。そのうえで、良観らを一堂に集めて正邪を決するよう求め、それをせずに処罰すると北条一門の同士討ちが発生し、蒙古からの侵略に遭うと断言。頼綱は怒り狂うだけであった。
結果は2日後に出された。9月12日、頼綱が数百人の兵士を率いて草庵に乱入したのである。経巻で殴打するなど狼藉の限りを尽くすのを目の当たりにした日蓮が「何と面白いことか。平左衛門尉が物に狂う姿よ。あなた方は今、日本国の柱を倒しているのだ」と大音声で叫ぶと、頼綱や兵士たちはひるんだという。
連行される途中、鶴岡八幡宮で馬から降り「八幡大菩薩は諸天善神ではないのか。私は日本第一の法華経の行者である。身には一分の過ちもない。大蒙古国が日本国を攻めようとしている今、天照太神・八幡大菩薩が安穏としてよいはずがない。法華経の行者を護るとの誓いを果たすべきではないか」と叱咤した。
竜の口の刑場に着くと、駆け付けた弟子の四条金吾が「只今なり」と涙を流した。日蓮が「不覚の殿方かな。これほどの悦びを笑いなさい。いかに約束を違えられるのか」と諭したその刹那であった。江の島の方から月のように光った物が鞠のようになって、東南の方角から西北の方角へ輝き渡ったのである。夜なのに人々の顔がはっきりと見えた。太刀取りは目が眩んで倒れこみ、兵士どもは恐れて逃げ出し、馬から下りて畏まったり、馬上でうずくまっている。
日蓮は、「どうされたのか殿方ども。これほど大禍ある罪人から遠のくのか。近くまで寄って来られよ。寄って来られよ」と声高に叫んだが、駆け寄る者もいない。「首を急いで斬るがよい。夜が明けてしまったら見苦しいではないか」と呼びかけても何の返事も無かったという。これが、第2の『国主諫暁』にあたる竜の口の法難である。
その後、1ヶ月近く相模国依智で待機を余儀なくされたのは、事後の処遇の評議で紛糾したことによる。門下が鎌倉周辺で放火や殺人事件を起こしたとの流言の是非が問われたこともあるが、頼綱の独断を知った北条時宗が緊急の命令書を追加発行したことも大きかった。それは「此の人は無罪である。赦さねば後悔するだろう」との内容であったという。
同書では、罪を減ぜられて佐渡島へ流罪となったこと、現地での極限の生活と次々に起こる危難、100人を超える他宗僧侶などとの塚原問答の様子、そして二月騒動の勃発で「自界叛逆難」が現実となったことなども詳細に語られているが、重要なのは極限の逆境にありながら、「開目抄」「観心本尊抄」などの重書を著し、末法万年の広宣流布を志向した教義を確立したことである。ドイツの詩人シラーの「一人立てる時に強き者は真正の勇者なり」との名言が心に迫る。
【最後の『国主諫暁』】
文永11年(1274)に幕府の命で鎌倉に呼び戻された日蓮は、4月8日に平頼綱と対面した。これが3度目にして最後の『国主諫暁』となる。執権時宗の代理人たる頼綱らは一転して威儀を和らげて礼儀正しく接し、仏教諸宗の法門について若干の質疑をしていたが、最後に「大蒙古国はいつ攻めて来るのだろうか」と問うた。日蓮は「今年中であることは間違いない」と答え、真言をはじめ諸宗の調伏(呪詛)の祈祷を続ければ法華経に説く「還着於本人(げんちゃくおほんにん)」という原理によって自らの滅亡を招いてしまうと、言葉を尽くして諫暁した。
しかし、幕府の基本方針は変わらなかった。どこまでも一宗一派に偏らない全宗派の祈祷調伏に拘泥したのである。法華経に限定し他を排せという日蓮と折り合うことは無かった。これはその後のわが国の権力者が一貫して変わらず取り続ける姿勢である。
なお、平頼綱との対決で日蓮が述べた「王地に生れたれば身をば随えられ奉るやうなりとも、心をば随えられ奉るべからず(王の権力が支配する地に生まれたのであるから、身は従えられているようでも、心まで従えられてはならない)」(撰時抄)という言葉は、ユネスコが世界人権宣言20周年を期して古今の名言を集めた「人間の権利」という語録に収録されている。
日蓮は配流先の佐渡で「日蓮を用いぬるとも、悪しく敬わば国亡ぶべし」と明言している。間違った用い方をしたら亡国となるとの意である。日蓮は一等地に寺院を寄進すると懐柔してきた幕府と妥協せずに身延に入山したが、さらなる罪に問われることなく正式に赦免された。弟子檀那たちも幕命による弾圧を被ることはなかった。
鎌倉幕府は日蓮の諫言を採用しなかった。それはとりもなおさず悪用しなかったということになる。結果的に、2度に渡る蒙古の襲来を撃退し、かろうじて一国の滅亡を回避することができた一因であると言えよう。そう思うと、田中智学らの「日蓮主義」をイデオロギーとして戦争遂行に利用した昭和の軍部政府が、大日本帝国の滅亡を招いた歴史的事実に粛然とせざるを得ない。
とはいえ、蒙古への再三の防備強化や激化する恩賞問題、朝廷の両統迭立による紛糾など、想像を絶する心身の負担に苛まされた北条時宗は32歳の若さで病死。得宗家執事として一時全盛を極めた平頼綱は「平禅門の乱」で一族誅殺されている。三度目の『国主諫暁』で訴えた「還着於本人」そのままの姿と言ってよい。財政難や災害等の対策で疲弊し統治能力を失った鎌倉幕府が、承久の乱の再来を期して派遣した武将足利尊氏や新田義貞の裏切りに遭って滅亡したことは、歴史の必然であると言える。日蓮滅後51年のことであった。
【像法時代の『公場対決』】
さて、日蓮が『公場対決』にこだわった理由は何か。それは、末法に先駆ける像法時代(釈迦滅後一千年から二千年までの期間)に中国と日本で行われた宗論があったからである。
まず、中国南北朝から隋代に活躍した天台大師智顗(ちぎ)は、南朝陳の至徳3年(585)に陳朝5代皇帝(陳叔宝)の御前で全中国最高峰の僧正や僧都ら百余人(南三北七の大師という)と対決。法論の結果、法華第一が満天下に証明された。これにより、陳を降伏させて中国を統一した隋も、その後継たる唐も、天台宗を中心とした仏教を国の根幹に置いた。隋唐時代に絢爛たる文化の華が咲き誇った淵源と言われているのである。
次に、平安時代の伝教大師最澄は、延暦21年(802)に神護寺に行幸した桓武天皇の前で、南都六宗(華厳宗・法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・律宗)七寺の14人の碩学と対論。日蓮の「報恩抄」によると、最澄の批判に対し六宗の学者は一言も答えることができず、天皇の勅宣により14人は「承伏の謝表」を奉ったという。最澄は遣唐使から帰国後、日本天台宗を開き比叡山に大乗戒壇を建立した。この『公場対決』が王朝文化の花開く400年もの平安な時代の礎を築く要因となったと言えるのではないだろうか。
このように、仏法の正邪を時の君主が自ら明らかにすることが、天下泰平・国土安穏のため極めて重大なことであると確信して、日蓮は『公場対決』を求め続けたのであるが、行敏や強仁と名乗る僧から法論を申し込まれたときには、私的な問答は喧嘩のもとになるので、朝廷や幕府に奏聞して公的な場にて対論すべきであると返答している。(佐渡で行われた塚原問答では幕府の守護代本間重連が臨席していた)
これは、竜の口法難にお供した四条金吾が、天台宗の僧・竜像房と日蓮の弟子三位房が鎌倉桑ヶ谷で行なった問答に立ち会い、遺恨の残る争闘に巻き込まれ主君の勘気を蒙って謹慎を余儀なくされた事実からも、十分に頷ける見識であると考える。(つづく)