吉田たかおのよしだッシュブログ

京都市会議員 (公明党)・吉田孝雄が日々感じたことを綴ります。

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国主諫暁についての一考察(4)

2020.08.16 (Sun)
4.徳川期の国主諫暁 
 
【徳川家康の宗教弾圧】
 日本人は古来、信心深い民族であった。なかでも、戦国から安土桃山にかけての戦乱に次ぐ戦乱の時代、いくさ人たちは必死に武運長久を神仏に祈った。それは、殺生する自身が地獄に堕ちない保証を得たい、自らは弾に当たらず助かりたい等々、切実なものであった。また、彼らを率いる大名も同様であり、刻々と移ろう戦機を逃したくない、調略した相手に裏切られたくない、など人智を超えた神仏の領域を信じてひれ伏した。自らの正義の裏付けを神や仏の加護に求めて士気を高め、敵を調伏(呪詛)する。それが有無を言わせぬ武断社会における宗教の役割であった。
 
 ただ、当時の権力者たちは一宗のみ限定で他を用いないという考えは持ちえなかった。八百万(やおろず)の神の国として、幾千年の歴史が積み重なって、先祖を崇拝する心情と地域に根付いた習俗に固執していた。同時に、仏教が説く法門の深遠さや重厚さに圧倒され、巨大な「文明」として尊敬した。まるで「ごった煮」のごとく仏教の各宗派を融合し受け入れていったのである。そして、彼らの眼からは、法華経こそ唯一絶対であり他宗は謗法であると断ずる日蓮の教えは「頑な」で「偏狭」と映った。
 
 同じことはキリスト教にも言える。16世紀に日本に渡来したキリスト教は、宗教的使命に熱情を燃やす宣教師(伴天連)の活躍で30万人を超える信徒を獲得した。この事実は日本人の宗教的な寛容性、敷衍すれば新しいものを受容する国民性を裏付けている。逆説的であるが、だからこそ、唯一絶対神を奉ずる伴天連の厳格な教義と、一般庶民から大名に及ぶ幅広い信徒(切支丹)の飛躍的な急増は、権力者たちにとって看過できない障害と断定され、過酷な弾圧にさらされていったのである。
 
 徳川家康は、織田信長と豊臣秀吉から引き継いだ天下統一事業の総仕上げを果たし、慶長8年(1603)に征夷大将軍に就いた。江戸幕府である。分裂から統一への過渡期にあって、三河時代に一向一揆に苦しめられた家康は、秀吉の刀狩を継承し徹底させて仏教寺院の武力と経済力を収奪。試行錯誤の末に、地域住民の葬送儀礼や戸籍管理など出先機関的な責務を担う寺請制度を推し進めるとともに、本末制度(本山と末寺を固定する施策)を確立するなど宗教統制を完成させる。その幕府から徹底的に弾圧され禁教となったのが、他宗と妥協しない切支丹と日蓮宗不受不施派であった。
 
 日蓮が求めて止まなかった『公場対決』の第3弾は、天下統一を急ぐ徳川家康のもとで3つの段階を積み重ねて行われた。その中の慶長宗論は浄土宗と日蓮宗の宗論であったが、後味の悪い強権的な判定が下され、その前後の大坂対論と身池対論は日蓮宗各門流の内紛を裁定するものであった。信長の安土宗論を上回る峻烈な仕置きであり、資料を読むほどに暗澹たる気持ちを禁じ得ない。以下に順序だてて紹介する。 
 
【妙覚寺日奥の大坂対論】 
 発端は豊臣秀吉存命時に遡る。主君信長の死後、山崎の合戦や賤ケ岳の戦いなどで勝利した秀吉は、織田家を簒奪して天下人として君臨した。南蛮貿易の利益を期待して切支丹を保護し、石山合戦の天敵顕如に天満本願寺を寄進するなど、宗教界との融和を図っていた秀吉は、天正13年(1584)に日蓮宗に安土宗論の起請文を返却する。逼塞した日蓮宗の各門流は息を吹き返した。
 
 秀吉は、貿易と宗教を侵略の道具に利用する欧州列強(スペインやポルトガル)との外交のせめぎ合いに精力を傾ける中、東アジア秩序の再編への野望を現実のものとするべく朝鮮出兵という大きな賭けに出た。朝鮮半島に甚大な被害をもたらした侵略戦争は、単なる誇大妄想と排斥されるものではなく、日本の存亡の危機を覚知して惹起したものであったと思われる。その激震は、明朝の衰退や女真(満州族)の勃興、欧州の新旧勢力の覇者交代など、世界史の変動にも大きな影響を与えたと言ってよい。ただし、布教の主眼を折伏から摂受(摂引容受の略語で、相手の間違いを否定せず受け入れ、穏やかに説得すること)に転換した日蓮宗が、秀吉を諫暁した形跡は無かった。
 
 ところが転機が勃発する。文禄4年(1595)9月、秀吉は先祖供養を盛大に挙行するべく「方広寺大仏殿千僧供養会」を企図し、天台宗、真言宗、律宗、禅宗、浄土宗、日蓮宗、時宗、一向宗に出席を要請した。出仕状を受けた日蓮宗各派は本国寺に集まって対応を協議する。安土宗論以来の重大事態であった。
 
 長老格の本満寺日重が「一宗にとって不詳の義であるが、国主の機嫌を損なえば諸寺が破却される。ただ一度、命に応じて出仕して、その後は辞退を願えば宗旨は建つのではないか」との折衷案を出したが、妙覚寺日奥が反対して譲らなかった。日奥の主張は多数派に容れられず、千僧供養会の参加が決定。妙覚寺の僧俗から翻意を迫られた日奥は、住職を辞して丹波小泉(現・亀岡市)に蟄居した。
 
 その折、日奥は「法華宗諫状」を秀吉に提出している。それは、「時すでに法華の代なり。国また法華の機なり。しかれば即ち天下を守る仏法は、独り法華宗に限るべし。仏法を助くる国主は、専ら法華経を崇め給ふべし。所以に仏法と世法が相応ぜば、聖代速かに唐堯虞舜の栄に越へ、正法正義を弘通せば、尊体久しく不老不死の齢を保ち給はんか」と、死を賭して国主秀吉を諫暁するものであった。日奥は翌年にも後陽成天皇に対し「法華宗奏状」を送っている。
 
 次元や時代は違うが、2.26事件の凶弾の恐怖に沈黙する昭和の政治家の中で「粛軍演説」や「反軍演説」を敢行した斎藤隆夫を彷彿とする、称賛に値する覚悟ではないだろうか。
 
 秀吉は日蓮宗が出仕したことを当然と受け止め、妙覚寺を去った日奥をお咎め無しと決裁した。ところが日蓮宗各派は、供養会への出仕をなし崩しのように続けていった。これが宗内の反発を増幅し、日奥への共鳴が波のように広がっていく。
 
 慶長3年(1598)に秀吉が没すると、京都の日蓮宗十六本山は内大臣・徳川家康に、日奥を公命違背として訴えた。翌年11月20日、家康は大坂城に両者を召喚する。大坂対論である。これを宗教統制の好機とみた家康は、「一度だけ出仕すればあとは免除する」と懐柔し、「飯の饗応を嫌うなら膳に向って箸を取るだけでよい」とまで譲歩したのだが、日奥は平伏するどころか拒絶する。
「大仏の出仕を嫌うのは汝1人だ。衆議に違背するのは法華宗の魔王ではないか」と責める家康に日奥は「仏法の正邪は人の多少ではなく、ただ経文を本といたします」と譲らず、ついに家康は「かように強議を言う者は天下の大事を起こすだろう。ただ流罪に処せよ」と決断。その場で袈裟と衣をはぎ取られ念珠を奪われた日奥は、対馬に13年間、流人として苦難に耐えたのであった。
 
 驚くのは、他宗との対決ではなく、同じ日蓮宗内の教義上の紛糾を公儀に訴え出た各門流の高僧たちの意識である。宗祖日蓮の嘆きはいかばかりであったろうか。 
 
【常楽院日経の慶長宗論】  
 日奥の死身弘法の精神に共鳴した僧の中に、常楽院日経がいた。日経は永禄3年(1560)に日蓮宗の盛んな上総の国に生まれた。この年は桶狭間の戦いがあり、石田三成や直江兼続、後藤又兵衛が誕生した年でもある。彼が育った茂原は、天文法華の乱の契機となった松本問答の立役者松本久吉の地元であった。
 
 日奥が対馬に流された直後、日経は妙満寺27世の貫主として招聘される。東国での活躍が評価されての事であった。法華経の行者たらんと決意する日経は、日奥の赦免運動に従事するとともに、京都に安住することなく諸国を折伏に奔走する。
 
 日蓮宗内を揺るがせた方広寺大仏殿の千僧供養会は、豊臣秀頼の死までの約20年、ほぼ毎月行われていた。しかしその間、慶長元年(1596)の慶長大地震による方向寺大仏の大破や、秀吉の死(同3年)、大仏殿の焼失(同7年)など凶事が続く。統一権力の宗教政策の象徴である千僧会に対する不受不施派の批判の声は水面下で広がっていった。
 
 慶長12年(1608)に画期をなす事件が起こった。日経が尾張国熱田で浄土宗西山派の正覚寺沢道に対して「浄土三部経は妄語であり、念仏宗は無間地獄に堕つ」など23ヶ条の詰問状を送ったことが、増上寺12世存応を経て徳川家康に上訴されたのである。翌慶長13年(1609)11月15日に江戸城において増上寺廓山らと江戸城で宗論が行われた。浄土宗側で「武城問答」と伝わる慶長宗論が、日蓮宗と浄土宗の第3回目の『公場対決』であった。
 
 判者は、真言宗高野山遍照院の頼慶が選ばれ、国主である大御所家康のほか将軍秀忠、松平忠輝や蒲生氏郷、上杉景勝、伊達政宗、浅野長政など錚々たる大名と、本多正信・大久保忠隣・酒井忠世など老中が一堂に会した。過去2回の『公場対決』と比べても格段の盛儀である。
 
 当日は、早朝から家康ら一同が威儀を整えて待っていたが、日経ら日蓮宗側は登城しない。ようやく午後になってから戸板に乗せられた日経と弟子5人が参上したものの、平伏したままの状態であり、弟子たちが重病のため宗論は不可能と言上する。家康は忿然として「衆人の心を誑かせる」と断じ、宗論の継続を命じた。
 
 判者の頼慶が対論の開始を促したが、日経は悶絶して一言も発することができない。浄土宗の廓山が扇で畳を叩いて「四十余年顕真実」などを取り上げて論争を挑んだが、日経らは応えることも叶わなかったので、家康は「衆人の見るところ、浄土宗の法門の勝利は明らかなり」と判決を下したのであった。
 
 後年に日経が遺した文書によると、この日の午前に50人以上の暴漢が乱入して散々に打擲し、瀕死の状態にされたという。それが宗論の場で横たわったまま、口も利けない状態となった理由だった。この暴行が幕府の指図なのか、浄土宗側の単独行動なのか、あるいは背後関係を持たない輩の仕業なのかは明らかでない。
 
 日経と弟子5人は、その場で袈裟と法衣を剥ぎ取られたうえ、翌年2月に六条河原で処刑された。日経は耳と鼻を削ぎ落され、弟子の5人は耳を切り取られたが、1人が落命したという。弟子たちは宗門復帰を許されたようだが、日経は責を1人で負った。丹波亀山から小浜、福井や小松を転々として、金沢で本覚寺を寄進されたものの、告発を受けて富山の神通川あたりまで流浪し、その地で果てたと伝わる。家康の命による探索がいかに執拗であったかがわかる。殉教者に栄光を与えてはならないと熟知していたからではないだろうか。
 
 なお、日経と血縁が深い上総と下総では、寺請制度に組み込まれながらも「内証題目講」という在家集団が密かに信仰を続け、明治維新まで命脈を保ったという。不受不施派は江戸時代を通して「邪宗門」とされ徹底した弾圧を受けたが、記録に残る殉教者の多くが、在家の信徒たちであることが特徴である。 
 
【死せる家康と日奥の身池対論】  
 慶長14年(1609)、日経らの処刑にあたって江戸幕府は、日蓮宗諸寺に対して日経が尾張で突きつけた「念仏堕地獄」について文証(経文上の証拠)を出すよう命じた。これに対して、京都の十五山は「念仏堕地獄は経や釈には無く、祖師(日蓮)が任意に立てた法門です」と答弁した。これには、本満寺日乾(日重の高弟)などのほか、妙満寺日喜(日経の代理)や妙覚寺日就(日奥の後任)も連署している。
 
 また、不受派を強く唱えた関東の池上本門寺ら六山も屈服し、同様の答弁書を提出。受派である身延山久遠寺の日遠(日重の高弟)も答弁書を提出している。日蓮の「四箇格言」は、弾圧に戦々恐々となった門弟たちから、虚妄として否認されたのであった。
 
 しかし、ただ1人、対馬の日奥のみが違った。日奥は、法華経比喩品と不軽品の文証を明示し、「およそ日蓮聖人の法門は、経文を本として建てる。何ぞ私儀有らんか」との正々堂々たる書状を送りつけたのである。
 
 慶長17年(1612)に日奥が赦免され対馬から京都に戻ると、不受派がにわかに勢いを増した。4年後の元和2年(1616)4月に家康が死去すると、6月に博多の唯心院日忠の調停によって、不受派と受派の和睦が実現する。日奥の活発な活動によって、幕府の政策を受け入れた身延の独り勝ち状態が崩れていったのである。
 
 日奥の旺盛な執筆や説法は宗内を活性化する。その精神は「法華の行者、国主の御勘気を蒙って、遠流等の大難に値ふこと、経文の金言、祖師の行跡なり。なんぞ喜悦せざれんや」との殉教の自負に溢れ、洛中からも関東の諸山からも、圧倒的な支持を受けた。
 
 対馬流罪から23年、徳川家光が将軍の宣下を受けた元和9年(1623)に、京都所司代板倉勝重が不受不施派弘通を公許し、10月には「京都諸寺統一之連盟」が成立した。
 
 ところが日奥は、権威を借りた不当な理論や暴力で苦しんだ安土宗論と慶長宗論の苦い経験を鑑み、門下にむやみな宗論を厳重に禁止した。教団を掌握したとの達成感があったのか、それとも守りに入ったのか。生命を賭して秀吉を諫暁した折伏精神に翳りが見えてきたのである。
 
 その代わり、身延の総帥日乾との論争は熾烈を極めた。「宗義制法論」では、「祖師の時より堅く立て来たる制法を一度もこれを破らば、永代宗義は立つべからず」と固く戒めて楔を打ち込んでいる。危機感を覚えた身延も日蓮宗総本山としての法度を制定するなど反撃を開始し、日蓮宗の諸門流は再び分裂に陥った。
 
 昭和戦後の左翼学生が「内ゲバ」を繰り返して世論の共感を失ったのと同じように、日蓮宗は内部抗争に精力を傾けて消耗し、公武権力や町衆たちの眉を顰めさせていったのである。
 
 寛永3年(1626)に、徳川秀忠夫人崇源院(浅井三姉妹の三女お江の方)の死去に伴い、受派の身延山久遠寺は布施を受けた。布施を断った池上側が身延を非難したことで、それを口実に身延が池上を上訴する。この訴訟は様々な調停も不調に終わり、泥沼状態に陥った。
 
 4年後の寛永7年(1630)5月13日、幕府は江戸城に両派の代表を呼び出し、対座させて法論をおこなった。身池対論である。判者は天海大僧正や金地院崇伝など碩学6名、奉行として酒井雅楽頭や土井大炊助らが仕切った。対決する受派は身延山久遠寺の日乾、日遠、日暹と藻原妙光寺日東ら6名、不受派は池上本門寺日樹、中山法華経寺日賢ら6名であった。その中に日奥の姿は無かった。1ヶ月前に病死していたのである。
 
 対論は、寄進された寺領は国主からの「供養」なのか、それとも「仁恩」に過ぎないかが争われたが、結果は火を見るよりも明らかであった。教義上の勝劣ではなく、権現様(故・家康)の裁きが大前提であったからである。家康の死後に板倉所司代が出した公許状は無効とされた。したがって日奥の赦免も無効と決まり、流罪が再び確定。遺骨が対馬に送られた。死せる家康の裁定が、死せる日奥を容赦なく鞭打ったのだった。
 
 日樹らも流罪となり、不受派はことごとく駆逐された。徹底した弾圧が加えられたのは言うまでもない。その後も身延は、伝家の宝刀・幕府訴訟を連発して宗門の反対勢力を排除し続け、総本山の位置を確固たるものにしていった。
 
 寛永9年(1632)に日蓮宗の「本末体制」が決する末寺帳が提出されたのを機に、30数年越しに「宗門改め」が徹底される。寛文9年(1669)、寺請制度の完成に合わせて「不受不施之日蓮宗寺請禁止令」が発令された。こうした法整備によって、かつての比叡山の僧兵や一向一揆、島原の乱などのような宗教者の異議申し立ては禁圧され、300年近い天下泰平の礎となった事実は否めない。
 
 しかし、人権の本質である「信教の自由」は失われた。日蓮門流は『国主諫暁』どころか「同士討ち」に執着したことで、これを許したのであった。(つづく)

※次回が最終回【近現代の国主諫暁】ですが、資料収集やその他の重要な仕事も入り、原稿が未確定です。アップは少し時間をあけることとなります。ご了承ください。 

国主諫暁についての一考察(3)

2020.08.16 (Sun)
3.戦国期の国主諫暁

【京中おおかた題目の巷】
 応仁の乱からの復興期、日蓮の教えは京の町衆に爆発的に広まった。各寺院を有徳人といわれる富裕層が大檀那となって外護し、近衛家などの公家や薬師寺などの幕臣に加え、足利義政の母日野重子も熱心な信者であったという。
 
 彼らやその奉公人を消費者とする商業や工業、物流業そしてサービス業などの人びとは、京都を活性化させる主体者であった。20世紀中期の日本のように、廃墟から復興する過程で経済が急成長し、文化や宗教が活況を呈したのである。
 
 同時に、地震や台風などの天変地異や、それに起因する深刻な飢饉と疫病、果てしなく続く戦乱の恐怖と、まさに背中合わせのギリギリの日々であったに違いない。現実と格闘して生きている町衆には、来世の極楽往生を渇仰するよりも、現世での苦境からの脱出と社会の繁栄が重要であり、だからこそ日蓮の立正安国の教えに強く惹きつけられたのではないだろうか。
 
 日蓮宗各派は「法華経本門と迹門の勝劣」など教義の根幹にかかわる見解の相違で対立を続け批判を応酬していたが、競い合うことで相乗効果を生み、飛躍的に教線を拡大していった。弘教推進や信者の育成などで、有機的な組織が自然発生的に進化したと思われる。
 
 その中で、女性の強信者が少なくなかったことも重要である。法華経で説かれた女人成仏などの平等思想や苦難を克服した日蓮の生きざまが、乱世に生きる女性の心を打ったのであろう。先に紹介した近衛政家の娘や本阿弥光悦の母などの強靭で清らかな信仰の実践が後世に語り継がれている。
 
 当時の公家の日記でも「法華宗の繁昌、耳目を驚かすものなり」(中御門宣胤)や「法華の輩(略)京中に充満す」(九条尚経)などと驚きを持って語られている。「昔日北華録」という書物には「天文元年の頃、京都に日蓮宗繁昌して、毎月二ヶ寺三ヶ寺ずつ寺院出来し、京中おおかた題目の巷となる」と記されている。京都は町衆の弘教拡大によって広宣流布していたのである。
 
【法華一揆と一向一揆】
 両細川の乱で頻繁に戦場となり、将軍も管領もいない権力の空白地となった都で、町衆が自衛のため武装を余儀なくされたのも無理はない。文亀4年(1504)、細川政元が摂津守護代・薬師寺元一(元長の養子)の謀反を鎮圧する際に下京町衆を軍事徴発した報酬として地子(税)が免除された事件や、永正8年(1511)に細川澄元(政元の養子)が京都に攻め込んだ時に上京町衆が自衛軍を編成し、大規模な示威行軍(打ち廻り)を敢行したという。
 
 その後、大永7年(1527)の桂川の戦いを機に動乱が激しさを増し、年末から年明けにかけて10件もの市中の乱暴狼藉事件が公家の日記等に残されている。そしてその際に寺院の鐘を合図に数百人の町衆自警団が参集して武力鎮圧を図っていることが注目される。その中核を信仰心と組織力を兼ね備えた日蓮宗の若者が担ったと思われる。
 
 こうした武装する町衆が、その力を発揮したのが「題目の巷」と評された天文元年(1532)であった。その年の5月、京兆細川晴元(澄元の嫡子)が宿敵畠山氏の内紛に介入するにあたり、山科に本拠を置く本願寺に援軍を要請。10世証如(蓮如の曽孫)が畿内の門徒に激を飛ばすと、当時の武家が動員する兵力の10倍以上の軍勢が畠山軍を全滅させ、その勢いで堺に押し寄せて三好元長(長慶の父)を自害に追いやった。
 
 途方もない潜在能力に目覚めた門徒衆は大和国を焼き払い、晴元の居城も包囲してしまう。法主の証如も制御不能に陥る一向一揆の暴走に、東山を隔てて隣接する京都は恐慌に陥った。晴元から懇請を受けた日蓮宗の各寺は大同団結し、法華一揆を結成した。
 
 天文に改元した8月、数万の軍勢となった法華一揆は、20年前から緊急時のたびに行なっていた打ち廻りを再開して勢いをつけ、近郊の地侍たちも糾合して晴元軍や近江の六角定頼軍と合流し、山科本願寺を包囲した。記録を分析すると、全焼して陥落した本願寺の死者は意外にも少ないという。法華一揆勢が退路を開いたのかもしれない。証如らは摂津の石山に落ち延びた。石山本願寺はこれ以降、大規模な城塞への力を蓄えていく。
 
 前代未聞の宗教戦争は1年間続いた。復讐に燃える門徒の大軍と山崎や高槻、摂津富田、尼崎や池田などで死闘を繰り返したのである。和睦後も戦時体制は続いた。兵を収めたものの、洛中警護を怠ることは出来ない。地子未払いは継続され、周辺荘園の徴税代官請けも京を護った町衆が担った。裁判も自前で行なったという。幕府が武断政治を司るこの時代に、世界でも珍しい、大都市の「民衆自治」が実現した。奇跡といっても過言ではないだろうか。
 
 戦勝の熱狂と権力を追い払った達成感が慢心を誘ったのか、宗教的熱情による排他独善の言動が武家や公家との軋轢を生む。4年後の松本問答(比叡山僧侶と日蓮宗信者の私的宗論)を口実に、延暦寺の僧兵は細川晴元と六角定頼と共に強大な反法華一揆連合軍を糾合。京都に雪崩を打って攻め込んできた(天文法華の乱)。
 
 天文5年(1536)7月23日から28日までの激戦で市内のほとんどが焼失した。応仁の乱を上回る被害であったという。洛中21ヵ寺は全焼し、死者は1万人。僧侶や主な信徒は堺に避難した。9月にようやく入洛した晴元は寺院再建や弘教を禁じた。6年後に12代将軍足利義晴も帰京。天文16年(1547)に公式に赦され僧俗は京都に戻った。16ヶ寺まで復興する中で、武器を取って団結する「一揆」ではなく、武家や他宗と交渉するため「会合」という連合体を組織する方針に転換していった。
 
【織田信長と安土宗論】
 両細川の乱は晴元を破った三好長慶が終結させたが、その死後に後継者たちが13代将軍足利義輝を弑逆するなど混乱は最高潮に達し、宗教者にとって諫暁するべき国主が見当たらなかった。そんな時に彗星のように登場したのが織田信長である。
 
 永禄11年(1568)に義輝の弟・足利義昭(15代将軍)を奉じて入洛した信長の活躍は、ここでは詳述しない。比叡山焼き討ちや石山本願寺との死闘など、宗教の権威を微塵も恐れない信長は無神論者のように言われるが、桶狭間の戦いで熱田神宮に祈願し、長篠合戦では軍旗に「南無妙法蓮華経」の題目を掲げていた。
 
 本家筋にあたる織田敏定が、甲斐身延山久遠寺と京都本国寺を清洲城内で対論させるなど、熱心な日蓮宗の信徒であった。そのような家系に天文3年(1534)に生まれた信長は、幼少期の大事件・天文法華の乱を知っていただろう。だからこそ、天正7年(1579)の安土宗論を起こしたのではないだろうか。
 
 空前の賑わいを見せる安土は、まさに政治・経済・文化の中心であり、義昭を追放して室町幕府を滅亡させた信長は、今や誰もが認める国主であった。豪華絢爛な巨城安土城のお膝元に創建した浄厳院が、第2回目の『公場対決』の舞台となった。
 
 この有名な宗論も、松本問答と同じく僧侶に信者が議論を吹っかけた事件が契機となった。浄土宗浄蓮寺の霊誉玉念という老僧が安土城下で説法をしていたところに、日蓮宗信徒の2人が論難し、玉念が僧侶を連れてくるよう諭したのが発端である。
 
 宗論の当事者である妙満寺派の久遠院日淵によると、安土から堀秀政ら奉行衆の使いが京都に立て続けに到着して、「早々に安土に来て、浄土宗と問答するように」と命じ、「少しでも遅くなれば、ご命令に背く事になる」と念押ししたという。
 
 その日のうちに、頂妙寺日珖、常光院日諦、日淵らと、2人の信徒を折伏した普伝院日門らが慌ただしく出立。車軸が動くような雨の中を安土に到着した面々に、奉行衆3人が「問答に敗北した場合は、京都および織田家が治める分国の各寺院を破却する旨を認めよ。それが嫌なら立ち帰るが良い」と詰め寄り、日蓮宗側は「何事も上意のままに」と回答した。
 
 宗論のきっかけとなった日門(普伝)を「信長公記」では堺の油屋の当主の弟で妙国寺の僧と記すが、どうも日珖と混同されたようで、先の日淵の回想記に「最近帰伏した」とあり、普伝を祀る本妙寺(八幡市)の駒札にも「真言宗の僧として南光坊と称したが、永禄年間に法華宗に改宗した」と記されている。ただし、人格識見に秀でていたらしく、フロイス「日本史」に「その学問と権威を人々は大いに重んじた」と紹介されており、安土中の老若男女の群衆200人が説法を聴聞したという。
 
 5月27日、浄厳院に数千人が参集し宗論が始まった。浄土宗側が玉念、安土西光寺の聖誉貞安ら4人であったため、日蓮宗側に着座した普伝は仏殿の縁側から下に追いやられた。普伝の無念が偲ばれる。芝生で見守る聴衆のほとんどが浄土宗で、日淵は「籠の中の鳥」のようだったと回想している。信長によって手際よく指名された判定者は、南禅寺の鉄叟景秀、法隆寺の仙覚らであったが、折りから現地に来ていた因果居士という有髪の人物が急きょ加わった。
 
 対決の模様は「信長公記」と日淵の「安土問答実録」に加え、件の因果居士が「自筆安土問答」を記している。これらを照合すると、まず法華経で説かれる「阿弥陀仏」の解釈が争われ、念仏を包摂して説く法華経を、浄土宗の宗祖・法然が「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)」と否定するのは矛盾ではないかと日蓮宗が難じた。次に法華経の開経である無量義経の「四十余年未顕真実」(法華経以前は真実を顕さずの意)を日珖が繰り返し突きつけたところ、貞安が「あとで話す」とはぐらかし、玉念と口論を始める始末だったという。
 
 日淵らが勝鬨を挙げて勝利を宣して立ち上がった時だった。突然、因果居士が「法華経以前に成仏を説いた経はある」と声を上げ、「華厳経と法華経は同意別名である。法華経の真理は華厳経にありと説いた聖徳太子を偽りというのか」と畳みかけた。これに気圧されて着座した日蓮宗側に、貞安が「未顕真実であるならば、法華経以前の経を廃棄するはず。ならば方座第四の『妙』の一字も捨てるのか」と投げかけた。
 
 これについて、天台が判じた「五時八教」の教相判釈で浄土三部経は第三の方等部に位置付けられるから、方座「第三」と言うべき所を「第四」と言ったことで日蓮宗側が混乱したという説がある。同時に、方等部で説く「蔵・通・別・円」の四教のうち「円教」が完全無欠の妙法であるとの教判を、貞安が「第四の妙」と言ったとの解釈もある。
 
 いずれにしても、「法華の『妙』を捨てぬのか」と質した貞安に対し、日蓮宗が混乱して答えられなかったため、判定者から敗北と結論づけられたようである。玉念が「勝った勝った」と二度叫ぶと鬨の声のような大歓声が起こった。立ち上がった玉念が日諦の袈裟を引きちぎった時、日淵が逆に奪い返そうとして大混乱となり、日蓮宗側は殺到した聴衆から散々に打擲され、法華経八巻は破り捨てられた。
 
 判定者でありながら浄土宗に助け舟を出した因果居士は、「上様より御内証あり」と手記している。忖度なのか事前の申し合わせがあったのかは分からない。
 
 日蓮宗の僧侶は本堂の西側にある三畳敷の部屋に強引に押し込められた。その後、取り押さえられた普伝と塩屋伝内(「信長公記」では伝介)が入ってきた。伝内は玉念に問答を挑んだ町人であった。
 
【信長の裁定】 
 時を移さず、織田信長は安土城から浄厳院へ出向いてきた。大広間で信長は、南禅寺の鉄叟景秀をねぎらって蘇東坡の杖を進呈し、2人の浄土僧に扇と団扇を贈って帰らせた。次に、日蓮宗の面々を呼び出すと、伝内に向かって「塩売りの町人の分際で世間を騒がせたのは不届き極まりない」と自ら断罪。即座に首を刎ねさせた。 
 
 信長は普伝を面前に引き据えて執拗に責め立てた。近衛前久が彼を讃嘆したことや、一般庶民から敬慕されたという世評を1つ1つあげつらって、言葉を極めて糾弾したのである。「名声を利用して法華宗に取り入り、地位と賄賂を得たのであろう」と詰る信長に、普伝は反駁することなく「法華経こそ真実の経典であると確信し、この春から帰依したのです」と言うにとどまった。信長は「法華経が良いことはお前に言われずとも知っている」と言い放ち、斬首を命じたという。(もう1人の町人建部紹智も堺で捕縛され首を斬られている)
 
 目の前で無残な処刑を見た3人の高僧は震え上がった。信長は日珖に「お前は油屋の弟だな。よく似ている」などと声をかけ「法華宗が非難されるのは他宗を攻撃するからだ」と諭したが、最後に「覚悟を決めるか宗旨を替えるか」と迫り、返事を聞かずに引き上げた。
 
 その後、罪一等減ぜられ起請文を提出することとなった。内容は、「一、浄土宗への敗北を認めること」「二、他宗への法論をしないと誓うこと」「三、現在の地位を辞すること」の3か条であった。別室には同行の僧俗数百人が押し込められており、彼らの無事を条件にするという理由で、日蓮宗は誓紙を差し出した。曼荼羅に血判を押させたという。この顛末を「信長公記」は「世人の物笑いの種となった」と酷評している。
 
 後世の日蓮宗門弟たちは、安土宗論を信長の謀略だと主張した。確かに、宗論は信長主導で催され、会場も浄土宗寺院であった。強引な裁定や手回しのよい起請文、偶然居合わせたとする因果居士の存在など、傍証にこと欠かない。信長にしてみれば、石山本願寺との抗争の渦中で、天文の法華一揆を再現させないために牙を抜く必要を認めたのかもしれない。戦国時代では武田信玄や今川氏親、大内義興らも領国内の宗論を禁じている。各宗の共存を乱す宗論を嫌ったのは信長だけでなかったのである。
 
 そのうえで私見を述べると、信長は日蓮の弟子たちを試したのでなかったか。北条時宗や足利義教のように家宰に任せるのではなく、日蓮が求めて止まなかった『公場対決』を自ら命じて実現させ、国主として宗門の最高峰と直接対面しているのだ。僧と俗2人を目の前で斬首させたのも、竜の口で現出した奇跡が再現されるかを確認したかったのかもしれない。しかし、日蓮宗は屈服し起請文を提出した。死罪や流罪から一歩も退かなかった日蓮の不惜身命の精神に、信長が触れることは無かった。
 
 フロイスの記述によれば、信長は宇宙の創造主を否定して、神仏への信仰を迷信として斥け軽蔑したという。また、武田信玄への書状で“第六天魔王”と自称したとも伝えている。本人の自覚はどうであったかはさておき、法華経をはじめ仏道を修行する者の前に立ちはだかる「天魔」となった信長は、その後は日蓮宗を弾圧することはなかったものの、上洛時の宿所として寺院を提供させるなど、屈服の姿勢を求め続けている。
 
 3年後の天正10年(1582)6月、織田信長は天下統一の途上で明智光秀の謀反で自害する。信長・信忠父子が討たれた宿所は本能寺と妙覚寺。ともに日蓮宗の伽藍である。安土宗論で宗教の正邪を無視し、強権を振るって裁断した信長の最期は、法華経の行者の生命を奪った権力者がどのような末路を迎えるのかを、厳粛に証明するものとなった。日蓮の滅後300年のことであった。(つづく) 

国主諫暁についての一考察(2)

2020.08.16 (Sun)
2.室町期の国主諫暁
 
【分裂と一揆の時代】
 鎌倉幕府滅亡(1333年)で王政復古が成ったものの、建武新政が3年で瓦解した後は、約60年にわたる南北朝時代という混乱期に陥った。朝廷や公家だけでなく、武家や庶民を含む、ありとあらゆる階層で分派抗争が繰り返された。この分裂のエネルギーが競い合って「遠心力」が増幅され、農業生産や貨幣経済が発展した。この時代に創生された大衆文化や生活様式などは21世紀の今にも息づいており、現代の日本社会の起源との評価もある。
 
 南北朝・室町・戦国と続く内乱に次ぐ内乱の時代では、町衆や農民も武器を取って戦った。山城国一揆や加賀一向一揆などが有名であるが、鎌倉時代に誕生した新仏教が庶民に定着し浸透していったことも特筆される。この時代は長期的な寒冷期で、前代に越えて自然災害や凶作が続出していたことが大きいと考えられる。
 
 なお、「一揆」と聞くと江戸時代に百姓がムシロ旗を掲げて蜂起する異議申し立てを連想しがちであるが、「自力救済」が浸透した室町時代から戦国乱世にかけては、朝廷や幕閣から惣村に至るまで合意形成のために衆議を重ねる仕組みが定着し、力を合わせて団結することを「一揆」と称していた。
 
 この分裂の時代、ご多分に漏れず日蓮の弟子たちも分派を繰り返した。日蓮入滅後、6人の本弟子(六老僧)が分担して活動していたが、教義解釈や運動論で分裂して、多くの流派に分かれて抗争して競い合っていたのである。
 
 日朗門流の日像が、文化や経済の中心である京都で布教を開始したのは永仁2年(1294)。奇しくもクビライが没した年である。この際に酒屋や土倉(金融業)などの富裕な商人(有徳人)が帰依したといわれる。日像は、延暦寺・東寺・仁和寺・南禅寺・相国寺などの諸大寺から迫害を受け、都から3度追放されるも3度帰還を果たす。これには一番弟子の大覚の活躍があったらしい。
 
 大覚は、藤原氏の長者・近衛経忠の子と(あるいは後醍醐天皇の皇子とも)伝わる公家に血縁を持つ真言宗の有力僧であったが、正和2年(1313)に日像の説法に共感し、大覚寺の地位を捨てて弟子入りした。この働き掛けもあって、建武新政で味方を1人でも欲しい後醍醐天皇から綸旨を得ることに成功し、法華宗号を許されて妙顕寺が勅願寺となった。
 
 応安元年(1368)、足利義満が元服した同じ年、明王朝が創建される。翌年に室町幕府3代将軍に就任した義満が明徳3年(1392)に南北朝統一。日明貿易が本格化し、北山文化が花開く活況期であったが、守護大名が領国支配を守護代に任せるなど、下剋上の下地ができつつある頃でもあった。
 
 その頃、延暦寺の学頭を務めた高僧・玄妙が法華宗(日蓮宗)に帰伏した後、名を日什(にちじゅう)と改め上洛した。日什は会津蘆名氏の出自であったためか、太政大臣二条良基らと対面した後、後円融天皇へ上奏し、「二位僧都」の位と「洛中弘法の綸旨」を賜った。永徳3年(1383)に豪商天王寺屋通妙の外護により、六条坊門室町に妙満寺を建立。日什門流は安土桃山期から江戸期にかけて京都の日蓮門流が直面した激流に直面しているが、明治維新後には日蓮主義を唱えた本多日生が出現して顕本法華宗を興し現在に至っている。
 
 日什は明徳2年(1391)、足利義満に「立正安国論」を提出した。天皇や太政大臣に続き、名実共に最高権力者である義満への諫暁も果たしたとはいえ、彼らを改宗させることは出来なかった。他宗の有力僧との『公場対決』も行われなかった。強大な権力の前では、京都での布教を許されたことで良しとするしか無かったかもしれない。大覚といい日什といい、公武の有力者との縁故を突破口として弘通を図ったのだが、そこに門閥に頼る身分社会の限界が垣間見えてしまうのは私だけだろうか。
 
【命がけの『国主諫暁』】
 この間、日蓮の直系である身延ではどうだったのか。日蓮から相承を受けた日興は、路線対立で身延山を離れて壇越南条時光の駿河国上野郷へ移り、富士大石寺を開創した。日蓮からの相承書で「国主此の法を立てらるれば富士山に本門寺の戒壇を建立されるべきなり。時を待つべきのみ」と託された精神を受け継ぎ、人材育成と東国中心の弘教活動を展開した。幕府と朝廷への諫暁は六老僧の中で唯一回を重ねて継続しており、幕府への申状は正応2年(1289)と元徳2年(1330)の2通が、朝廷に宛てたものは嘉暦2年(1327)の1通が今日まで伝わっている。
 
 元弘3年(1333)、「未だ広宣流布せざる間は身命を捨て随力弘通を致す可き事」など26条の遺誡置文を遺して日興が入滅した同じ年に鎌倉幕府が滅亡。3世の日目が74歳の高齢をおして後醍醐天皇への『国主諫暁』のため上洛を目指したが、美濃国垂井で病を得て亡くなる。古代の壬申の乱と近世の関ケ原の戦いの舞台という歴史回天の地での客死であった。
 
 申状を携えて日尊が入洛。のちに要法寺を建立するも首都での弘通は困難を極めた。もう1人の随行者日郷は大石寺に戻ったが、日行と跡目争いが勃発。本門戒壇の大御本尊を擁する大石寺であったが、分派で紛糾した結果、江戸期には要法寺の下風に立つなど苦境が続いたのである。
 
 室町幕府全盛期の6代将軍足利義教に敢然と諫暁したのは、「鍋冠り」の伝説を持つ日親である。応永34年(1427)に下総の中山法華経寺から大志を抱いて上洛した日親は辻説法に励み果敢な折伏(折破摧伏あるいは破折屈伏)を展開。摂津や九州で実績を残した後、永享11年(1439)に花の御所で義教の行列を遮って上訴に及ぶという暴挙に出た。独裁者の逆鱗に触れた日親は政所執事伊勢貞国の邸で執事代・蜷川親当の尋問を受ける。日親は舌鋒鋭く法華一乗を訴え他宗を批判したが、一休宗純の説話にも登場する温和な親当(通称・新右衛門)の裁量によって釈放された。
 
 過激な言動は熱狂的な支持と恐怖感を触発し反発を生む。激烈な折伏を危険視した本山の貫主日有の告発などにより、日親は自著「立正治国論」提出の直前に捕縛され獄舎に入牢。1年後に出獄したが、舌を切られたり熱した鍋を被せられるなど壮絶な拷問に耐えたという。その真偽は不明だが、法華経の行者たらんと決意し、行動を全うしたことは間違いない。日親の不惜身命の戦いは、明治期に日蓮主義に傾倒した高山樗牛が発表した短編「鍋鐺日親」でひろく人口に膾炙した。
 
 樗牛の文章を現代語に訳して紹介したい。「人を殺した数や国を獲った広さなどで人物の大小を語ることは、少なくとも我らにとっては無意義である。その人の人間としての力量が深く強く現れたかどうか、そこに必ず、人生の真の大いなる事実がある。私の心情を動かすものは、この事実以外にはない」と。
 
 日親の入獄時に知遇を得た本阿弥清信が本法寺を寄進する。清信は幕府に奉行衆として仕えた松田家から刀剣鑑定などを生業とする本阿弥家に婿入りした人物で、本光との法名を日親から授かるなど強盛な信仰に励んだ。彼の曽孫が洛北鷹峯に芸術村(光悦村)を築いた本阿弥光悦である。
 
 京都で教線が拡大する中で、日親のように法華経を信じない者を謗法と断じ、布施や供養を一切受けず、謗法者に説法等も施さない(不受不施)と主張する純潔派よりも、公武の権力者をその対象から外す現実派が大勢を占めるようになった。この「王侯除外制」によって、権力者の庇護や支援を受容し、教団の維持を優先する方針が基調となっていった。比叡山延暦寺大衆の弾圧から一致団結して対抗する必要もあって、寛正7年(1466)に京の日蓮宗門流が一堂に会し盟約を結んだ(寛正の盟約)が、これには日親など一部の流派が連署しなかったという。
 
 応仁の乱(1467~1478)で天下は大混乱に陥り、真っ二つに分かれた将軍家を抱えて有力守護が全国津々浦々で争闘を繰り返すサバイバルの中で、時代は戦国乱世に突入する。大乱の渦中、関白近衛房前が日蓮宗本満寺に帰依し公家社会を驚かせた。その子政家は23歳で亡くなった娘の臨終の姿に感銘を受け法華経への信仰を強めたと、日記「後法興院記」に記している。
  
【細川政元と文亀宗論】 
 大乱後10数年を経て、管領細川政元が幕府中枢の実権を握り、明応2年(1493)に10代将軍足利義材を追放するクーデターを決行。この明応の政変以降、細川管領家(右京太夫の官名から京兆という)が将軍を廃立する京兆専制が始まった。
 
 この時代は、将軍が京都の室町殿に安住できず周辺の有力大名を頼る流浪が繰り返されるのだが、もう1つ顕著なのが公家や武家に日蓮宗が浸透しつつある事実である。明応5年(1496)に当時内大臣であった二条尚基が日蓮宗に帰依したとの噂が流れた。5年後の正月に前関白鷹司政平の子息が10歳にして得度したが、それが日蓮宗であったことが大きな反響を呼んだ。南都北嶺の由緒ある寺院の門跡として、皇族や摂関家の子弟が入室する事例は平安時代から枚挙にいとまがないが、そこに新興の日蓮宗が参入したのである。自身も一条家出身である興福寺門跡尋尊は日記で「無念なり」と嘆いている。
 
 この年(1501)は後柏原天皇が即位し、辛酉革命に当たるため3月に「文亀」と改元したが、5月に知られざる宗教的事件があった。熱心な日蓮宗信者である摂津国守護代・薬師寺元長が上京の自邸に京兆細川政元を迎え、日蓮宗本国寺の日了と浄土宗妙講寺の団誉玉翁の法論を主催したのである。浄土宗で「文亀真偽決」と呼ばれる文亀宗論は、まさに国主たる京兆が臨席した『公場対決』にほかならない。
 
 三条西実隆の日記「実隆公記」の5月24日条に「右京太夫(細川政元)の前で日蓮宗と念仏宗の論議問答があり、翌日の風聞では日蓮宗は雌伏(屈服)した」と伝えられているが、近衛政家の「後法興院記」では全く逆の事情が活写されている。
 
 この日、「薬師寺の宿所において京兆(細川政元)の前で本国寺と浄土宗妙講寺の宗論があるらしい」と記すのみであったが、翌25日に本国寺より僧2人の使いがあり、「当宗が問答に勝った」との報告を受けたという。同じ日、本満寺の住職が来て問答の詳細が語り合われた。そして27日には、「細川京兆が本国寺に向かった」との事実を記し、これを「24日の宗論が殊勝なので授法のため」であり、「一宗の大慶これにしかず。ようやく相当なる流布の時節か」と喜んでいるのである。
 
 これを読む限り、政元が法華経に帰依したことが伺えるが、果たしてどうであろうか。たしかに、この2年後に日了が僧正に任官されるなど日蓮宗は躍進を続けているのであるが、その一方で、玉翁も政元の支援を受けて荒廃していた寺院を再建している。そのうえ、越後上杉氏に出自を持つ玉翁は、後柏原天皇によって「団誉」の勅号を賜っている。これらから考えられるのは、この対決で政元は明確な勝敗を判定しなかったのではないかということである。2人の公家の正反対の記述からもそれが伺える。
 
 お互いの顔を立てる折衷案は世俗ではよくある話である。自力救済の中世で衆議された合意も、妥協の産物が少なくなかったに違いない。しかし、日蓮が身命を賭して求め続けた『公場対決』は宗教の正邪を公式に判定することだったはず。であるならば日蓮門下の僧俗は潔しとせずに、明確な決着を求めて異議申し立てをするべきではなかったか。ところが、そのような記録は伝わっていない。権力側も宗門の側も厳格な「覚悟」の無いまま、尻すぼみのように終わってしまった。こうして、初めての『公場対決』は歴史に埋もれてしまったのである。
 
 国主たる京兆の中途半端な姿勢は、他でもない武家にとって最も重大な家督相続にも大きな禍根を残した。修験道に傾倒した政元は女性を近づけなかった。そのため実子が無く3人の養子を迎えたのであるが、永正4年(1507)に家臣に暗殺されてしまう(永正の錯乱)。政元の跡目を争った血で血を洗う戦いに端を発した20年以上の争乱を両細川の乱という。この間、全国各地で戦乱が繰り返され、将軍どころか管領も都に住まうことが叶わず、近江や堺で対峙するという異常事態が続き、幕府の権威は地に堕ちた。文亀宗論は、まさに室町幕府の混乱と衰退を象徴する出来事と言えるのではないだろうか。(つづく) 

国主諫暁についての一考察(1)

2020.08.16 (Sun)
コロナ禍との戦いで、かつてない多忙な日々を送る中、やむを得ず「在宅ワーク」が増え、必要に迫られて、乱雑であった書棚を数年ぶりに整理することが出来た。
 
それを機に、時間の合間を縫って「立正安国論」「開目抄」「撰時抄」も再読・精読し、改めて21世紀の『国主諫暁』の重大な使命に、身の引き締まる思いを新たすることができた。
 
お盆休みを期して研究書を取り寄せるなど、自分なりに『国主諫暁』を研究したところ、日蓮門下が室町期と戦国期(安土桃山期)と江戸初期に、3度の『公場対決』を、国主立会いのもとで敢行していたことが分かった。
 
この「発見」は様々な示唆に富むものと思うので、拙い「考察」として発表して、心ある方々と共有したいと考え、ブログにアップさせて頂くこととなった。長い文章になるため、数回に分割しての掲載になることご了承願いたい。なお、考察文のため、敬称を略させて頂いている。

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はじめに
 
【鎌倉時代の日本】
 仏教が伝来して700年、鎌倉時代の日本は大地震などの天変地異が続出し、飢饉や疫病によって人心が荒廃していた。そして、困窮する民を救済するはずの朝廷や幕府など支配層は、保身と野心に身を焦がして内訌を繰り返していた。
 
 同じ時期、ユーラシア大陸ではモンゴルが領土を拡大する中で過去に例を見ない虐殺や文明破壊が展開されていた。チンギス・ハンの孫クビライの即位で東アジアの風雲は急を告げ、高麗が降伏し南宋も滅亡寸前、まさに風前の灯火であった。これらの情報は日宋貿易のネットワークや漂泊民と言われる遊行者などによって、列島を駆け巡っていたと思われる。国内情勢の打開が見通せない中、他国からの侵略の足音が着実に迫っていたのである。
 
 鎌倉幕府は、社会的な動揺を抑え人心を安定させる狙いもあり、最高峰の文化や知性の導入に腐心。建長寺蘭渓道隆などの渡来僧を招聘し、精神を修養する禅宗の教えを手厚く保護していた。同時に、鑑真の流れを汲む歴史と伝統を重んじる律宗が、西大寺叡尊や極楽寺忍性良観などの慈善活動で感謝と尊敬を集め、社会秩序の維持を期待されていた。
 
 当然のことながら、平安時代の仏教界をリードした比叡山延暦寺(天台宗)と高野山金剛峯寺(真言宗)が深く根を下ろし、天変地異や疫病など災厄を除く密教の修法が人びとの信仰の基調となっていた。奈良時代に国家宗教として栄えた南都六宗も健在であり、700年続いた宗教権威を利用した民衆支配が揺るぐことは誰も考えられなかったと言ってよい。
 
 一方で、当時の東アジアの政界や仏教界の理解では、11世紀半ばが釈迦滅後二千年を超え、仏法の功力が失われる「末法」が到来したとされていた。天皇親政から摂関政治、院政へ移行する一方、武士が台頭する時期にあたる。価値観が揺れ動く社会不安の中、「世も末」の末法思想が蔓延し、来世の極楽往生を希求する貴族や困窮民にこたえる法然らが説く念仏の教えが燎原の火のごとく一世を風靡。それとともに、一遍が踊り念仏で庶民層に爆発的に拡大していた。その中を、孤高の布教活動に邁進していたのが法華経こそ唯有一仏乗と説く日蓮であった。
 
 日蓮と言えば、辻説法で荒々しい他宗批判を展開したという印象が強いが、八万法蔵の仏典の研さんを極めた精緻な哲理を基調にしつつ、大地に根ざした生活者の実感に即した1対1の対話を重視していたであろうことは、現代に残る膨大な消息文からも窺える。深遠な思想と豊かな人間性で着実に信者を拡大していたが、幕閣はもちろん地頭など地域有力者からの支援や助力を受けることはほとんどなく、文字どおり裸一貫での言論闘争を展開していた。
 
【日蓮が求めた『公場対決』】
 大きな特徴を2つ挙げたい。1つは、末法では法華経への帰依以外は成仏なしとの確信で他宗との妥協を排した点、もう1つが国主にそれを強く求めたという点である。これを『国主諫暁』といい自身も迫害に屈せず貫くとともに、弟子にも厳命した。
 
 日蓮は「撰時抄」で自ら3度の『国主諫暁』を敢行したと述べ、それを「三度の高名」と表明した。3度とは、文応元年(1260)に前執権北条時頼に「立正安国論」を提出したこと、文永8年(1271)の竜の口法難と佐渡への流罪、そして赦免され鎌倉に戻った同11年(1274)の平左衛門尉頼綱(北条時宗執事)との対峙をいう。しかし、結果として幕府と折り合うことはなく決裂に至った。やむなく日蓮は「三度国を諫めんに用いずば去るべし」(種種御振舞御書)との「礼記」の故事に基づき、鎌倉を去り甲斐の国身延の山中に草庵を結ぶ。人材育成に基軸を移し、弟子に末法の法華弘通(広宣流布)を託したのであった。
 
 日蓮は3度に及ぶ『国主諫暁』で、公けの場での法論(問答あるいは宗論ともいう)を強く望み、果たせなかった。ところが歴史を紐解くと、この『公場対決』はその後3度実行されている。室町時代と戦国時代そして江戸時代に各1度、いずれも当時の政治の中心地で最高権力者のもとで行われ、勝敗が判決されているのである。
 
 1度目は文亀元年(1501)、応仁の乱後の京都で管領細川政元のもと行われた文亀宗論。2度目は天正7年(1579)に天下人織田信長が築いた安土城下で行われた有名な安土宗論。3度目は慶長13年(1608)に江戸城で大御所徳川家康と将軍秀忠臨席のもと行われた慶長宗論である。
 
 全て日蓮宗と浄土宗の宗論であったことも興味深い。「立正安国論」で「かの一凶を禁ぜんには」と指弾した念仏との対決を、後世の弟子たちが敢行したことになる。
 
 国主が立ち会った3度の『公場対決』の模様はどんなものだったのだろうか。自分なりに資料を収集したので紹介したい。そしてそれが、その後の歴史にどんな影響をもたらしたのかについて、考察したいと思う。
 
1.日蓮の国主諫暁
 
【「立正安国論」提出】
 まず、日蓮が当時の最高権力者である鎌倉幕府5代執権北条時頼らを諫暁した模様を概説したい。前述のように、当時は異常気象や大地震などの天変地異が相次ぎ、大飢饉・火災・疫病が続発していた。特に、正嘉元年(1257)8月に鎌倉地方を襲った大地震を機に、人々の不幸の根本原因を明らかにし根絶する道を示すためとして、日蓮は「立正安国論」を時の最高権力者であった北条時頼に提出した。文応元年(1260)7月16日のことである。
 
 第1回の『国主諫暁』である「立正安国論」では、天変地異が続いている原因は、国中の人々が正法に背いて邪法を信じているからであると説き、悪法への帰依を止めて正法を信受しなければ、経文に説かれている三災七難の中で自界叛逆難(内乱)と他国侵逼難(他国からの侵略)が起こると警告し、速やかに正法に帰依するよう諫めた。
 
 三災七難とは、穀貴(飢饉による穀物の高騰)・兵革(戦乱)・疫病(伝染病)の3種の災いと、星宿変怪難(星の運行の混乱)・非時風雨難(季節外れの風雨災害)などの7種の災難をいう。
 
「立正」とは、人々が正法を信仰することで生命尊厳の理念が社会を動かす基本の原理として確立されることであり、「安国」とは、社会が平和で繁栄して人々の生活の安穏を実現することである。「国」とは、権力を中心にした統治機構という面にとどまらず、自然環境の国土も含まれる。それは、日蓮自身の真筆で国の字を「国構えに王」だけでなく、「国構えに民」を用いていることからも伺える。
 
 そのうえで、「詮ずるところ、天下泰平・国土安穏は君臣のねがう所、土民の思う所なり。国は法に依ってさかえ、法は人に因って貴し。国亡び人滅せば、仏を誰か崇む可き、法を誰か信ず可きや。まず国家を祈りて、すべからく仏法を立つべし」とあるように、時の主権者が法の邪正を明らかにすることこそ政治の肝要であると訴えたのである。
 
 そして最後に、日蓮は「すべからく一身の安堵を思わば、まず四表の静謐を禱らん者か」と論じた上で、「ただ我が信ずるのみに非ず。また他の誤りをも誡めんのみ」と結論し、『国主諫暁』に身命を賭す自身の覚悟を表明して擱筆している。
 
 なお、日蓮は国主の在り方として「王は民を親とし」(上野殿御返事)と述べ、「守護国家論」では「民衆の嘆き」を知らない国主は悪道に堕ちると断言している。この確信で、日蓮は言葉を尽くして諫暁したのである。
 
【竜の口の法難】
 第2と第3の『国主諫暁』の模様は、建治2年(1276)に著した「種種御振舞御書」で克明に回想されている。文永5年(1268)に蒙古から国書がもたらされたのを機に、日蓮は幕府首脳や有力寺院11ヶ所に書状を送った。8代執権北条時宗には「諸宗を御前に召し合わせ仏法の邪正を決し給え」と諫め、道隆や良観らに「対決」を迫ったのである。
 
 ところが弟子たちから伝わる風聞は、評定所の評議で「日蓮の首を刎ねるべきか。鎌倉から追放するべきか」が議論され、弟子檀那等に対しては「所領を没収して首を斬れ。或いは牢に入れるか遠流するべき」等との意見が出たという。
 
 動揺する門下に、「我が弟子は一人も臆してはならない。法華経を信じて大難に遭ったことで退転するのは、沸かせた湯に水を入れるようなものだ。各々、思い切りなさい。末法に法華経を流布する我が一門は、迦葉・阿難や天台大師・伝教大師にも優れている。わずかの小島の主から脅されても恐れてはならない」と断固たる決意を打ち込んだ。
 
 3年後の文永8年9月、日蓮は評定所へ召還され、平頼綱から尋問を受ける。頼綱は念仏者や真言師等からの告発を取り上げ、日蓮が「故最明寺入道(北条時頼)殿や極楽寺入道(北条重時)殿が無間地獄に堕ちた」「建長寺・寿福寺・極楽寺・長楽寺・大仏寺等を焼き払え」また「道隆上人・良観上人等の首を刎ねよ」と主張したことの真偽を問い質した。
 
 日蓮は臆すことなく首肯し、時頼らの存命中から「無間地獄に堕ちる」と警告しており、すべて日本国のことを思っての発言であると訴えた。そのうえで、良観らを一堂に集めて正邪を決するよう求め、それをせずに処罰すると北条一門の同士討ちが発生し、蒙古からの侵略に遭うと断言。頼綱は怒り狂うだけであった。
 
 結果は2日後に出された。9月12日、頼綱が数百人の兵士を率いて草庵に乱入したのである。経巻で殴打するなど狼藉の限りを尽くすのを目の当たりにした日蓮が「何と面白いことか。平左衛門尉が物に狂う姿よ。あなた方は今、日本国の柱を倒しているのだ」と大音声で叫ぶと、頼綱や兵士たちはひるんだという。
 
 連行される途中、鶴岡八幡宮で馬から降り「八幡大菩薩は諸天善神ではないのか。私は日本第一の法華経の行者である。身には一分の過ちもない。大蒙古国が日本国を攻めようとしている今、天照太神・八幡大菩薩が安穏としてよいはずがない。法華経の行者を護るとの誓いを果たすべきではないか」と叱咤した。
 
 竜の口の刑場に着くと、駆け付けた弟子の四条金吾が「只今なり」と涙を流した。日蓮が「不覚の殿方かな。これほどの悦びを笑いなさい。いかに約束を違えられるのか」と諭したその刹那であった。江の島の方から月のように光った物が鞠のようになって、東南の方角から西北の方角へ輝き渡ったのである。夜なのに人々の顔がはっきりと見えた。太刀取りは目が眩んで倒れこみ、兵士どもは恐れて逃げ出し、馬から下りて畏まったり、馬上でうずくまっている。
 
 日蓮は、「どうされたのか殿方ども。これほど大禍ある罪人から遠のくのか。近くまで寄って来られよ。寄って来られよ」と声高に叫んだが、駆け寄る者もいない。「首を急いで斬るがよい。夜が明けてしまったら見苦しいではないか」と呼びかけても何の返事も無かったという。これが、第2の『国主諫暁』にあたる竜の口の法難である。
 
 その後、1ヶ月近く相模国依智で待機を余儀なくされたのは、事後の処遇の評議で紛糾したことによる。門下が鎌倉周辺で放火や殺人事件を起こしたとの流言の是非が問われたこともあるが、頼綱の独断を知った北条時宗が緊急の命令書を追加発行したことも大きかった。それは「此の人は無罪である。赦さねば後悔するだろう」との内容であったという。
 
 同書では、罪を減ぜられて佐渡島へ流罪となったこと、現地での極限の生活と次々に起こる危難、100人を超える他宗僧侶などとの塚原問答の様子、そして二月騒動の勃発で「自界叛逆難」が現実となったことなども詳細に語られているが、重要なのは極限の逆境にありながら、「開目抄」「観心本尊抄」などの重書を著し、末法万年の広宣流布を志向した教義を確立したことである。ドイツの詩人シラーの「一人立てる時に強き者は真正の勇者なり」との名言が心に迫る。
 
【最後の『国主諫暁』】
 文永11年(1274)に幕府の命で鎌倉に呼び戻された日蓮は、4月8日に平頼綱と対面した。これが3度目にして最後の『国主諫暁』となる。執権時宗の代理人たる頼綱らは一転して威儀を和らげて礼儀正しく接し、仏教諸宗の法門について若干の質疑をしていたが、最後に「大蒙古国はいつ攻めて来るのだろうか」と問うた。日蓮は「今年中であることは間違いない」と答え、真言をはじめ諸宗の調伏(呪詛)の祈祷を続ければ法華経に説く「還着於本人(げんちゃくおほんにん)」という原理によって自らの滅亡を招いてしまうと、言葉を尽くして諫暁した。
 
 しかし、幕府の基本方針は変わらなかった。どこまでも一宗一派に偏らない全宗派の祈祷調伏に拘泥したのである。法華経に限定し他を排せという日蓮と折り合うことは無かった。これはその後のわが国の権力者が一貫して変わらず取り続ける姿勢である。
 
 なお、平頼綱との対決で日蓮が述べた「王地に生れたれば身をば随えられ奉るやうなりとも、心をば随えられ奉るべからず(王の権力が支配する地に生まれたのであるから、身は従えられているようでも、心まで従えられてはならない)」(撰時抄)という言葉は、ユネスコが世界人権宣言20周年を期して古今の名言を集めた「人間の権利」という語録に収録されている。
 
 日蓮は配流先の佐渡で「日蓮を用いぬるとも、悪しく敬わば国亡ぶべし」と明言している。間違った用い方をしたら亡国となるとの意である。日蓮は一等地に寺院を寄進すると懐柔してきた幕府と妥協せずに身延に入山したが、さらなる罪に問われることなく正式に赦免された。弟子檀那たちも幕命による弾圧を被ることはなかった。
 
 鎌倉幕府は日蓮の諫言を採用しなかった。それはとりもなおさず悪用しなかったということになる。結果的に、2度に渡る蒙古の襲来を撃退し、かろうじて一国の滅亡を回避することができた一因であると言えよう。そう思うと、田中智学らの「日蓮主義」をイデオロギーとして戦争遂行に利用した昭和の軍部政府が、大日本帝国の滅亡を招いた歴史的事実に粛然とせざるを得ない。
 
 とはいえ、蒙古への再三の防備強化や激化する恩賞問題、朝廷の両統迭立による紛糾など、想像を絶する心身の負担に苛まされた北条時宗は32歳の若さで病死。得宗家執事として一時全盛を極めた平頼綱は「平禅門の乱」で一族誅殺されている。三度目の『国主諫暁』で訴えた「還着於本人」そのままの姿と言ってよい。財政難や災害等の対策で疲弊し統治能力を失った鎌倉幕府が、承久の乱の再来を期して派遣した武将足利尊氏や新田義貞の裏切りに遭って滅亡したことは、歴史の必然であると言える。日蓮滅後51年のことであった。

【像法時代の『公場対決』】
 さて、日蓮が『公場対決』にこだわった理由は何か。それは、末法に先駆ける像法時代(釈迦滅後一千年から二千年までの期間)に中国と日本で行われた宗論があったからである。
 
 まず、中国南北朝から隋代に活躍した天台大師智顗(ちぎ)は、南朝陳の至徳3年(585)に陳朝5代皇帝(陳叔宝)の御前で全中国最高峰の僧正や僧都ら百余人(南三北七の大師という)と対決。法論の結果、法華第一が満天下に証明された。これにより、陳を降伏させて中国を統一した隋も、その後継たる唐も、天台宗を中心とした仏教を国の根幹に置いた。隋唐時代に絢爛たる文化の華が咲き誇った淵源と言われているのである。
 
 次に、平安時代の伝教大師最澄は、延暦21年(802)に神護寺に行幸した桓武天皇の前で、南都六宗(華厳宗・法相宗・三論宗・倶舎宗・成実宗・律宗)七寺の14人の碩学と対論。日蓮の「報恩抄」によると、最澄の批判に対し六宗の学者は一言も答えることができず、天皇の勅宣により14人は「承伏の謝表」を奉ったという。最澄は遣唐使から帰国後、日本天台宗を開き比叡山に大乗戒壇を建立した。この『公場対決』が王朝文化の花開く400年もの平安な時代の礎を築く要因となったと言えるのではないだろうか。
 
 このように、仏法の正邪を時の君主が自ら明らかにすることが、天下泰平・国土安穏のため極めて重大なことであると確信して、日蓮は『公場対決』を求め続けたのであるが、行敏や強仁と名乗る僧から法論を申し込まれたときには、私的な問答は喧嘩のもとになるので、朝廷や幕府に奏聞して公的な場にて対論すべきであると返答している。(佐渡で行われた塚原問答では幕府の守護代本間重連が臨席していた)
 
 これは、竜の口法難にお供した四条金吾が、天台宗の僧・竜像房と日蓮の弟子三位房が鎌倉桑ヶ谷で行なった問答に立ち会い、遺恨の残る争闘に巻き込まれ主君の勘気を蒙って謹慎を余儀なくされた事実からも、十分に頷ける見識であると考える。(つづく) 

予算特別委員会市長総括質疑

2020.03.13 (Fri)
3月13日、私・吉田たかおは京都市会本会議場で開催された予算特別委員会の市長総括質疑で、門川市長への質問に立ちました。 

200313総括質疑

市民の皆さんからお預かりした大切な税金の使い道をシビアに検証し、京都活性化への政策へと昇華するため、真摯な議論を重ねています。第3分科会での局別質疑を基調として総括質疑に臨みました。

下記に質問原稿と、答弁の主旨を掲載させていただきます。長い文章で恐縮ですが、関心のある方はお読みください。

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予算特別委員会市長総括質疑
 
                  吉田たかお(公明党)

【新型コロナウィルス対策】
おはようございます。質疑に入る前に、新型コロナウィルスに感染された方やご家族、関係者の皆様に心よりお見舞い申し上げます。

また、感染拡大を食い止めるべく昼夜を問わず最大限に尽力されている第一線の職員の皆さん、バックアップで支える事務方の皆さんの奮闘に、心から敬意を表します。

どうか、市長のリーダーシップで、不安をお持ちの市民の心に寄り添って、丁寧に説明責任を果たしつつ、迅速かつ的確な対策を矢継ぎ早に実施して頂きたい。このことを強く要望いたします。

【担税力強化-1 ふるさと納税】 
令和2年度予算案におきまして、2月の市長選挙で掲げたマニフェストの8割以上を計上されたことは高く評価できると思います。丁寧にきめ細かく、そのうえでスピード感をもっと実行して頂きたいと申し上げます。

公債償還基金の取崩し、調整債など大変厳しい財政状況の中での予算案であります。開会本会議での市長の提案説明においても、縮小一辺倒にならないとの決意で、財源確保のために「担税力強化」と「民間活力導入」を重視するするとともに、人件費削減や事業の見直しなどの歳出改革を徹底するとされています。

第1分科会の局別質疑において、我が会派が財政当局に申し上げてきたのは、企業版ふるさと納税1億やふるさと納税5億、これらに対する目標値の低さでありました。事務方としての企画プランは当然として、やはり市長の「トップセールス」が何よりも必要であると考えます。

今までも、京都市の都市格を上げるため、前面に立って成果を上げてこられましたが、より具体的に、市長自らがトップセールスに力を入れ、結果を出していくべきであると考えますが、いかがですか?

≪門川市長答弁≫
厳しい財政を自覚し、行財政改革と担税力強化のため、あらゆる取り組みに力を入れる。トップセールスにおいて、京都の魅力を打ち出す「旅行クーポン」などをはじめ、さまざまに工夫を重ね、実績を積み重ねてまいりたい。

【担税力強化-2 ものづくりベンチャー支援】
第3分科会でも「担税力強化」の目玉ともいうべき「スタートアップエコシステム事業」が、多くの会派の委員も取り上げておられたところであります。

この事業は、わが会派の青野副議長が、京都経済の誇りある「ものづくり」の伝統を生かしたベンチャー企業への支援として、5年越しで議論を積み重ねてきたものであり、今予算における経済活性化策の第1番目に位置付けられています。

局別質疑では、世代や国籍を問わず幅広い人材の柔軟な新しい発想に対して、量産化や資金調達などの支援を行うことで、雇用促進や担い手育成など具体的な効果があるとの答弁でありました。

国もスタートアップ支援に注目しており、このほど国内に3カ所程度の「支援拠点」の候補を募集しており、京都市も京阪神との連携する方式で応募されています。ぜひ国の施策をリードしてもらいたいと期待しています。

門川市長の「府市協調」を象徴する目玉ともいえる政策でもあります。市民や企業の皆様にご理解得られるように、また国内外の起業を目指す方々にも認知いただけるよう、しっかりと広報すべきと考えますが、いかがでしょうか。

≪門川市長答弁≫
京都の強みを最大限に生かす事業と認識。府市協調を推進し、大学等の研究機関とも力を合わせている。伝統と先端技術を連動し、市民に可能性を伝えてまいりたい。

【民間活力導入】
市長が持続可能な財政のために不可欠であると強調したもう1つが「民間活力導入」であります。

これについては、昨年の決算委員会で私は、「民間にすべてを丸投げするとか、公共ですべてを賄うべきとか、そういう極端な“二者択一”ではなく、民間活力の意義を検証し効果的な活用が問われる」と指摘し、責任の所在を明確にしたうえで、多くの市民が納得できる事業推進を求めました。

今回の予算についても、局別質疑で我が会派の平山委員が「民営化と民間委託の混同が懸念ではないか」と問題提起しました。民間の良さを生かすのは、ただ単に「効率化」だけではないと考えます。

市民の側に立つサービス向上やシビアな目標達成意識、データや机上の論議ではない現場感覚、柔軟な発想による事業推進が期待されます。同時に、利益追求に偏らない公平公正の姿勢や、市民からの信頼感は公共の大きな強みと言えるのではないでしょうか。

民間の良さと公共の強みをマッチングし、相乗効果を出すことが大事であります。市民への説明責任を果たし市民の声を重視するためにも、段階を踏まない一足飛びの民営化ではなく、文字通りの民間活力の導入を推進し、公営企業の活性化を現実のうえで効果を発揮して頂きたい。いかがですか。

≪門川市長答弁≫
市民に安心して頂けるよう、行政が責任をもって進めていく。今後も眠っている資産等を積極的に活用し、民間の活力を生かしてまいりたい。

【観光問題】
最後に観光混雑問題、マナー向上対策などを取り上げます。これは、今回の市長選でも大きな争点となり、「観光公害」「オーバーツーリズム」という言葉が飛び交って、門川市政の失政というイメージも擦り付けられたようで、市民の皆さんも心配され、「不安を煽りたてるだけで、思考を停止するポピュリズムではないか」という懸念の声もありました。

私の認識では観光混雑やマナー向上については、急に問題化したものではなく、数年前から議会で議論を重ね、われわれ議員も市民の声を届けて具体的対策を求め、市民目線の提案などもしていたのであり、それが功を奏して、具体的な解決の道筋が出つつある段階が今である、そう思うのであります。

今回の市長選では、賢明な選択がされたと総括しています。同時に、この問題は令和2年度に大きな前進をするものと確信しています。さて、私が手に取っておりますのは、『観光公害』という、そのものズバリのタイトルの書籍です。

200313書籍

元NHK記者の大学教授の方が、フィールドワークを駆使して詳しくレポートされており、昨年の決算委員会でも紹介させて頂きました。たしかに前半部分では、京都市で深刻化している観光の課題が紹介されていますが、後半は、プロジェクトの多彩な先進的取り組みが解説され、希望を持てるような内容です。

中でも、「京都版DMO」が大きな可能性を持つと語られ、分散化やマナー向上、魅力の発信を民間との連携で現場の知恵を発揮すると取り上げられています。

今、新型コロナウィルスの影響で観光客が減少していますが、このような時期だからこそ、混雑やマナー問題の対策を練り上げ、具体的にグレードアップしておくべきと考えます。そして、治安の良い京都では手ぶら観光が便利なこと、夜型や朝型観光の魅力、マナーを守る大事さ、などを内外に積極的にアピールする時ではないでしょうか。

終息した後に、多くの観光客に京都に戻って頂かなければなりません。京都を選んでもらえるように、今この時にこそ施策を練り上げ、内外に発信するべきであると申し上げます。柔軟な発想と丁寧な執行を期待します。このご決意と展望についての答弁を求め、質疑を終わります。

≪門川市長答弁≫
多角的な視点で50項目の施策を展開し、観光課題解決の先進都市として、内外に京都の魅力が届くよう尽力していく。 
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