吉田たかおのよしだッシュブログ

京都市会議員 (公明党)・吉田孝雄が日々感じたことを綴ります。

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2021年2月市会本会議代表質疑

2021.02.25 (Thu)
令和3年2月25日、私・吉田たかおは京都市会本会議で公明党議員団を代表し、門川市長への質疑に立ちました。

20210225代表質疑

新型コロナとの未曽有に長期戦にあって、追及や糾弾に終始しない建設的な質疑を展開し、前向きな答弁を勝ち取ることが出来ました。下記に質問原稿と答弁(主旨)を掲載させて頂きます。

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伏見区選出の吉田孝雄です。公明党京都市会議員団を代表し、大道義知・曽我修両先輩議員に続いて質疑をいたします。市長並びに理事者におかれましては、誠意あるご答弁をお願いいたします。

まず、新型コロナに感染した方やご家族に心よりお見舞い申し上げます。また、医療従事者や介護従事者の方をはじめ、総てのエッセンシャルワーカーの皆さんに敬意を表し、感謝申し上げます。

【人間中心の新しい社会「Society5.0」について】
最初に、人間中心の新しい社会「Society5.0」について提案いたします。これは、公明党京都市会議員団が毎年発表している政策提言の本年度のテーマでございまして、「新型コロナウイルス感染症を乗り越え、京都市の更なる発展を目指して」とのサブタイトルを付して、今月17日に門川市長に提出いたしました。

「Society 5.0」とは、平成28年1月に閣議決定された「第5期科学技術基本計画」で我が国が目指すべき未来社会の姿として提唱されたコンセプトであり、現実の空間とクラウドなどのサイバー空間を高度に融合させたシステムによって、経済の発展と社会的課題の解決を両立する人間中心の社会を実現するというものです。

アメリカの未来学者アルビン・トフラーは、『第三の波』で人類の歴史は3つの技術革新の波によって発展したと解説しました。約1万5千年前の農業革命によって、第1の狩猟社会から第2の農耕社会へ、19世紀の産業革命によって第3の工業社会へ、そして戦後の脱産業化の第3の波による情報革命が高度情報化社会に発展させたというものです。

そして、21世紀。我が国が直面する様々な課題を克服する「新たな価値の創造」が時代の閉塞感を打ち破るキーワードであると位置づけ、人間中心の社会「Society5.0」のグランドデザインが打ち出されました。

コロナ禍で新しい生活様式への転換が模索される中、誰ひとり取り残さないSDGsの理念を基調とした経済や社会活動が重要となっています。人工知能やIoT、ビックデータなどをあらゆる産業や社会に取り入れることによって実現する未来社会では、AIの活用により必要な情報が必要な時に提供されるようになり、ロボットや自動運転など最先端の技術で、少子高齢化、地方の過疎化などの課題を解決することにつながると考えられており、1人1人が希望を持って活躍し、世代を超えて互いに尊重し合あえる共生社会が展望されるのです。

私たち公明党議員団は、総ての市民が豊かな暮らしを実現する人間中心の新しい社会「Society5.0」の実現に向けた政策を提言するべく、国の基本計画や成長戦略、世界の先進事例を学んだほか、大学教授とのオンライン会議や若い研究者たちとのディスカッションを重ねてまいりました。
 
また、9月市会と11月市会で川嶋議員と平山議員がデジタル化推進を求める質疑を展開。デジタル化戦略監をトップとした全庁横断のプロジェクトチームの発足と職員採用などの体制整備など、着実な前進を後押ししてきました。

今回の提言は大きく4点あります。提言1では、誰ひとり取り残さない「Society5.0」のため情報弱者やデジタル弱者と言われる方への視点を忘れない意識改革と人材育成を、提言2では市民の暮らしに資するため、情報インフラの整備や申請主義から脱却するデジタル化の拡充、最新技術を駆使した高齢者支援や医療サービス、災害対策向上などを提案しました。

提言3は京都市の歴史的・文化的価値を未来に引き継ぐためのデータベース化とオープンデータ化の推進を提起し、提言4は京都の強みを活かした産官学の人材と技術のシェアリング、業種の垣根を超えた中小企業間のマッチングなどの具体策を提案しました。

財政危機と新型コロナという2つの極めて重大な危機に直面している今こそ、未来に希望の持てるビジョンに裏付けられた政策を力強く進め、市民の皆様との協働を加速していかなければなりません。今回のSociety5.0の実現に向けた提言で提案した政策を取り入れて、新たな価値を創造する持続可能なまちづくりに邁進して頂きたい。市長のご決意をお聞かせください。

≪門川市長答弁≫(主旨)
頂いた政策提言をすべて読み、大いに賛同した。今後10年を決する基本計画にも「Society5.0」を盛り込んでいる。具体的提言を1つ1つ政策に活かしてまいりたい。
  
【新型コロナウイルス感染症に関する法整備】
次に、新型コロナウイルス感染症に関する法整備についてお聞きします。2月3日、いわゆる改正特措法などコロナ関連法が可決成立しました。新型コロナ対策の実効性を高めるため、緊急事態宣言の前段階として「まん延防止等重点措置」を新設すると共に、営業時間短縮の命令や入院措置に応じない場合に過料を科す内容です。

公明党は、時短を求められる事業者に財政上の支援を義務付けた点と、国と自治体間での情報連携の義務化や宿泊・自宅療養の法的根拠を明確にしたことを評価し賛成しました。

苦渋の決断を余儀なくされる飲食店や周辺の事業者から深刻な声が寄せられ、市民の反応も賛否両論に分れています。私は、コロナとの戦いの正念場を迎えた今、責任の追及や糾弾に終始するのではなく、心を合わせて励まし合い、知恵を出し合っていく姿勢が大事だと思います。

この1年間、多くの自治体で、行政と市民、事業者がお互いの責務を果たし、感染拡大防止に協力する条例が制定されています。一般財団法人地方自治研究機構によると、新型コロナウイルス感染症に関する条例は本年2月9日時点で 東京都や千葉県、愛知県など都県が12条例、名古屋市と千葉市、2つの政令市を含む40の市町村条例、合わせて52条例が制定されました。

海水浴場のマナー向上を呼び掛ける神奈川県逗子市、観光客に協力を求める京丹後市や沖縄県石垣市など、地域の実情を反映した条例もありますが、ほとんどが市民ぐるみで協力する感染拡大防止を規定すると共に、感染症患者や医療従事者の人権を擁護し、誹謗中傷など不当な差別を禁止しています。

また、千葉県流山市や愛知県半田市など9自治体の条例が議員提案であり、そのうち7条例が「議会の責務」を規定しています。愛知県豊橋市の「コロナ禍からみんなで豊橋のまちを守る条例」のようにネーミングに工夫を凝らしている自治体もあります。

昨年の早い時期に大学生や医療機関のクラスターを経験した京都市は、国や府と連携した様々な施策を推進し、7度にわたる補正予算を組んで、感染した方やご家族、医療機関や介護・児童施設、中小企業や文化芸術従事者、学生などへの支援を重ねてきました。しかしながら、戸惑いや不安を払拭できているとは言えません。

だからこそ、特措法が施行された今のこの段階で、市民ぐるみで困難を乗り越えるとの思いを目に見える形で示す、京都ならではの新型コロナ条例を検討してはいかがでしょうか。

市の施策推進と情報発信の充実を明記するほか、市民や事業者に感染防止の努力と人権擁護の促進に努めて頂くことを規定する条例となるよう、パブリックコメント等で広く意見を募集し、市民の声を結集することは大きな意義があると思います。

新型コロナ感染症対策に市民協働で取り組み、実効力を発揮する条例の制定に向け、幅広い世代の市民に協力を呼びかけていくべきと考えますがいかがでしょうか。ご答弁を求めます。 

≪門川市長答弁≫(主旨)
市民ぐるみで新型コロナ感染防止を徹底し、スピード感を持って状況の変化に対応することは重要。条例についても、真剣に検討してまいりたい。 
  
20210225代表質疑正面
 
【コロナ禍の虐待問題】
次に、コロナ禍の虐待問題についてお伺いします。緊急事態宣言が発出された翌日の1月14日、公明党議員団は「第3次緊急要望」を提出させて頂きました。市民の皆様から寄せて頂いた声を精査して、緊急性のある重要な16項目を要望しましたが、その中に「家庭での虐待防止」は外せないと判断し、盛り込んだものです。

ここ数年、全国で児童虐待の痛ましい事件が報道されています。本市でも令和元年度の通告件数は2,693件、認定件数2,051件とのことで、6年前の約2倍の数値であり過去最多とお聞きしています。

また、最近では障がい者への虐待や高齢者虐待の事件も増えています。本市においても、高齢者虐待の認定件数は元年度479件、平成30年度474件と横ばいではありますが、25年度の315件と比べると1.5倍となっています。障害者虐待は施設内の暴行事件などが報道されているものの、実際は同居家族からの虐待が圧倒的に多いのが特徴です。

今、コロナ禍で社会的孤立が深刻化する中、これら虐待事案が増加しているのではないかと心配されています。担当者に聞くと、今年度の集計はできていないが、現時点では通告数は例年と変わらないとの報告でありました。しかし、私は児童虐待をはじめ家族からの虐待は「目に見えない」ものであり、アンテナを張り巡らせないと見過ごしてしまうと懸念しています。

現在、2回目の緊急事態宣言が発出され、在宅のリモートワークなどが増える状況にありますが、深刻なのは雇い止めなどで仕事をしたくてもできない方が少なくないことです。「ステイホーム」で外出できず、密閉された中で生活せざるを得ない状況が続き、お互いが気を遣っています。

誰もが疲れ、緊張の限界がきているのでないでしょうか。虐待を早期に発見し、スムーズな対応を進めるには、いち早く小さなサインに気づき、情報を共有して具体的行動を重ねるという、「連携と協働」の仕組みを確立し拡充することが大事だと思います。

同時に、保護者や介護者など虐待をしてしまう側への支援も重要です。現場の最前線として区役所や福祉事務所、はぐくみ室、児童相談所を核にした、地域ぐるみで「社会的孤立」を防止する活動が大事です。当事者や周囲の方に寄り添った経験から言えることは、揺れ動く心を理解し不安に寄り添ってくれる人たちの存在が極めて重要であるという事実です。

この数年で積み重ねられたノウハウに加え、コロナ禍の中での相談実績も重ねられて、各機関のスタッフや地域の皆さんも、問題意識を共有されています。ぜひ相互の連携を深め、検証を重ねて、きめ細かな血の通った「システム」を機能して頂きたい。

そこで提案します。児童虐待に限定せずに高齢者虐待や障がい者虐待のカテゴリーを「虐待」という括りで融合し、行政と地域の協働で 市民ぐるみの取り組みを加速するため、仮称「虐待対策プロジェクトチーム」の設置を検討してはどうでしょうか。

愛媛県や埼玉県、大阪府藤井寺市、千葉県松戸市など8つの自治体でトータルな虐待防止条例が施行されています。また、千葉県ふっつ(富津)市ではDVと虐待対策の総合的な基本計画を、平成31年3月に策定しました。本市でも参考になるのではないでしょうか。政府も今月19日に社会的孤立防止のため対策室を新設しました。

コロナ禍の虐待問題を継続的・総合的な視点で取り組む基本計画や条例を検討すると共に、全庁横断の虐待対策プロジェクトチームを組織するなど、心の通った市民ぐるみの活動を推進して頂きたい。いかがでしょうか。ご答弁を求めます。
 
≪村上副市長答弁≫(主旨)
コロナ禍で虐待の潜在化が懸念される中、わずかなサインを見逃さないため、市民ぐるみのネットワークを構築し、早期に適切な対応ができる取り組みを推進してまいりたい。 
  
【新時代の学校教育】
最後に、令和新時代の学校教育についてお聞きします。コロナ禍にあって、学校現場は過去に例を見ない様々な困難に直面しました。学校再開後の授業の遅れを取り戻すリカバリー、部活動や各種行事の工夫など、言葉に尽くせない苦労の連続だったと思います。特に連日の感染拡大防止対策や、夏の熱中症対策は、未来に可能性を持つ青少年の生命を預かる、ギリギリの攻防戦であったと、心から敬意を表します。

そんな中、長期ビジョンで準備を進めてきた「GIGAスクール構想」は、子どもたちを誰ひとり取り残すことなく育成する教育環境のため、最先端のICT技術を活用した通信ネットワーク整備事業であり、公明党が国と地方の草の根ネットワークで実現に向けて尽力してきました。本市では今年度中に、総ての小中学校や総合支援学校の児童生徒に1人1台のタブレット端末を配備するとともに、校内ネットワークが高速大容量化されます。そして、来年度以降の本格活用に向け、52のモデル校でデジタルドリルの活用がスタートするなど、段階を踏まえた取り組みが重ねられているところです。

大阪府寝屋川市が全国に先駆けて導入したオンライン授業について、地元の議員さんにお聞きしたところ、新型コロナ感染を危惧する児童が登校せずに自宅で授業を受けるケースは、ほとんど無いものの、「選択肢」の存在が安心感を提供するという効果があったとのことでした。より重要なのは、不登校や長期入院の子どもへの「ライブ配信」が高く評価されている事実です。長年の懸案に対する大きな前進につながったと伺いました。研究に値する事例ではないでしょうか。

ICT技術を活用する最先端の教育を推進する上で課題となるのは、教員のスキル向上への支援だと思います。若手と比べて、ベテランの先生方が不安をお持ちだと推測します。

ICTの知識やスキルの向上に向けた教員へのきめ細かな支援が重要です。子どもたちのネットリテラシー教育も前進しなければなりません。先ほど申し上げた他都市の先行事例の研究も十分に行なったうえで、これらの充実を求めますがいかがでしょうか。

あわせて、少人数学級と教科担任制、部活動の3つの課題を取り上げたいと思います。いずれも、教員の負担を軽減する働き方改革という観点から注目されていますが、私は子どもたちの成長にとっても極めて大きな可能性を持つと考えています。

少人数学級については、公明党議員団が毎年の予算編成への要望で繰り返し求めていましたが、これに応えて本市では、平成15年度に小学1年生に導入した35人学級を翌年から2年生に拡大。19年度から中学3年生の30人学級を市単独で実施に踏み切っていました。今年1月、萩生田文部科学大臣は公明党の強い申し入れを受け止め、5年計画での「全小学校の35人学級実現」を正式に決定しました。今後のタイムテーブルに基づく着実な推進が求められます。

また、小学校の学級担任以外の教員が担当する専科指導は、本市では非常勤のスクールサポーターが全ての小学校で導入されています。常勤の専科指導教員は、72校で配置されていますが、先月の中教審で令和4年度を目途に高学年で本格的に導入すべきと答申されており、期待が高まっています。

部活動については、少子化による競技人口の減少を受け、学校単位の大会参加の在り方が見直されている中、顧問を担う教員の負担軽減が課題となっています。本市では市独自のガイドラインを作成し、部活動支援員の配置や外部コーチの派遣事業などを実施しており、今後もより一層、地域と連携した充実がカギとなると考えます。
 
新しい時代の重要課題である少人数学級と専科指導、部活動について、国の動向と連動した大胆かつ緻密な手を打って学校現場を活性化して頂きたい。京都の未来を拓く施策推進への決意と展望をお聞かせください。以上で私の質疑を終わります。ご清聴ありがとうございました。
 
≪在田教育長答弁≫(主旨)
来年度から、全校にGIGAスクール推進委員会を設置し、ICT環境を活用して様々な課題を掲げる子どもたちの実態に応じたきめ細かな教育を進めたい。少人数学級や部活動の実践研究を試行実施し、学校現場の活性化を充実してまいりたい。   

「高齢者の足の確保」問題について

2021.01.16 (Sat)
京都市では、市内中心部と比べて山科区・伏見区・西京区など周辺部は市バス系統が少なく「交通不便地域」と呼ばれています。伏見区の醍醐地域(醍醐・石田・日野・小栗栖)ではコミュニティバスが定着していますが、それ以外の地域では高齢化に伴う「足の確保」問題が喫緊の課題となっています。

私の地元・桃山地域でも、駅や商業施設への移動が困難になった高齢者から「醍醐のような交通機関が導入できないか」との切実な声が寄せられていますが、種々の検討を重ねているものの、結論がなかなか出ない状況です。コミュニティバスを導入しても経営が成り立たずに破たんすれば、もっと大変な事態になるからです。

201001吉田代表質問2

私は、多くの方々との意見交換を通して、議会の場で何年もかけて質疑を重ねてきました。ちょうど1年少し前の2019年12月の本会議代表質問で、「桃山南地域のバス路線変更」の検討を要望するとともに、長期ビジョンに立脚した福祉施策を提案しました。

その折に市長・副市長から「次期高齢者支援計画に盛り込みます」との答弁がありました。このたび取りまとめられた「京都市長寿すこやかプラン第8期」に新規事業として「介護施設の送迎バスを高齢者移動支援に活用する」施策が盛り込まれ、正式に今後の指標となりました。本当に良かったです。

1月からパブリックコメントも募集されています。ぜひ市民の生の声を寄せて頂きたいと存じます。尚、下記に本会議代表質問の模様を抜粋して紹介します。

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 2019年11月市会本会議代表質問
                            12月4日
(略)
【高齢者など交通弱者の移動支援】
最後に、高齢者など交通弱者と言われる方々の移動支援についてお聞きします。私は平成22年11月市会本会議代表質問で地域公共交通の在り方を問題提起し、その後も本会議や委員会で積極的な議論を重ねてきました。

高齢化の進展で、交通弱者の移動支援は極めて重要な課題となっています。醍醐地域はいち早くこの問題に取り組み、コミュニティバスを開業。本年15周年を迎え、乗客800万人を突破する記念イベントが開かれるなど軌道に乗っています。関係者のご尽力に敬意を表します。隣接する桃山地域でも「醍醐のようにできないか」との声が早くから上がっていますが、規模的に採算面で困難であり実現への動きに至っていません。

桃山地域の公共交通問題を、9月市会で同じ伏見区選出の2人の議員も取り上げられました。会派を超えて問題意識を共有しているのです。それほど切実であることを市長も認識していただきたいと申し上げるものでございます。

また、9月市会で提案された「高齢者の安全運転支援と移動手段の確保を求める意見書」でも、「高齢者が日々の買物や通院などに困らないよう、コミュニティバスやデマンド型乗合タクシーの導入など、地域公共交通ネットワークの更なる充実を図ること」と論じており、全会一致で採択され国に送られたところであります。

本年3月の予算委員会と10月の決算委員会で、私は桃山南学区に居住される方が高齢化に伴って駅まで歩く時間が倍増し困っている点を取り上げ、現在運行している京阪バスの「経路変更」を要望しました。

同じ京阪バスで山科区の小金塚と鏡山という2つの地域において新路線や増便などの実証実験も行われています。また、上京区では過去にデマンドバス運行実験など意欲的に取り組んだ経緯がありましたが、トータルな判断で市バスの経路変更を実施。大変に喜ばれています。ぜひ、桃山南学区のバス路線経路変更の実証実験に向け本格的に協議していただきたい。まずこの点を強く求めておきます。

高齢者の移動手段をいかに確保するかという課題は、山間地域や周辺地域だけでなく市街地中心地域でも深刻化することは、私が上京区で活動していた当時から重要な懸案でありました。10月の本会議でも鈴木副市長が「高齢者の方にとって最寄りの駅やバス停までの移動、すなわちラスト・ワンマイルへの支援が求められている」との認識を示しておられます。全市的な地域公共交通ネットワークへのビジョンを明確にして、実現に向けて具体策を検討することは待ったなしの課題であると申し上げるものです。

ただし、他都市で実施されている「ライドシェア」を分析しますと、大型タクシーのワゴン型タイプで乗り合いするスタイルでは、なかなか採算が合わず行政支援が際限なく膨れ上がってしまう懸念が大きく、多くの自治体が二の足を踏んでいる状況であり、厳しい現実があります。

そこで、発想を転換し、現在の「介護予防日常生活支援総合事業」の仕組みを拡充して、高齢者の移動支援に生かせないかと提案させていただきたい。国のガイドラインによると、この総合事業サービスの1つとして、要支援者の移動支援や、その前後の生活支援を行う事例が示されています。本市がこのサービス類型を新たに設けることによって、要支援の高齢者が介護事業者の送迎車両に乗って買い物や医療機関などに立ち寄ることができるようになるのです。

全く新しい仕組みを一から立ち上げるのは大変ですが、この介護予防日常生活支援総合事業を生かすものであれば、実現に向けて大きな可能性があるものと考えます。本市でも、地域に根を張る介護サービス事業者が高齢者の移動支援に取り組む仕組みを構築し、積極的に支援するべきと考えますが、いかがでしょうか。以上で私の質問を終わります。ご清聴ありがとうございました。

≪村上副市長答弁(主旨)≫
高齢者の移動や外出を支援することは重要と認識。ご提案の「総合事業の訪問型サービス」拡大は、他都市でも導入されている。高齢化進展を重視し、来年度策定の「第8次長寿すこやかプラン」に合わせ検討してまいりたい。 

倭国大王列伝(3)

2021.01.04 (Mon)
3.ミマキイリヒコ(崇神天皇) 

 九州から東征し、ヤマト(大和)に王権を開いたカムヤマトイワレヒコ(神武)から10代目の大王であるミマキイリヒコ(崇神)は、記紀をはじめ我が国の歴史書において時代を画する多大な業績を挙げたと伝えられている。

 1つは、疫病で国民の過半が失われる試練を克服したこと。2つは、王権の危機ともいえる強大な反乱を鎮圧したこと。3つは、いわゆる「四道将軍」を北陸道・東海道・山陽道・山陰道に派遣したこと。4つ目は出雲国を平定し勢力下に置いたこと。5つ目は戸口調査で農業を振興し「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称えられたこと。6つ目は灌漑など大型の事業に成功し国家の安定に尽力したこと。そして7つ目には任那や新羅との交流が始まったとされる点である。 
 
 記紀では、2代から9代までの大王の事跡に関する記述がほとんど無く、特に日本書記では第7巻に一括で収録されている(いわうる欠史八代)ことを踏まえると、第8巻に記載された崇神に多くの偉大な業績が集中していることに対して、近代合理主義的観点から疑いの目を向けられ、非実在説が主流になっている。神武と同じ称号(ハツクニシラス)を捧げられたことも、その根拠となっている。しかし、文献学的および考古学的に検証した結果として、全くの虚像(フィクション)と決めつけるのは妥当ではなく、長い年月の風雪に耐えて伝承されていた実像(歴史的事実)の痕跡が垣間見えるのではないか。この点を考察したい。

【考察1】血統
 伝承として神武から10代目の大王と記憶されていた。ヒコクニオシヒト(6代孝安)から書記が編纂された当時の朝廷に仕える豪族の遠祖が登場するが、これは以降の直系や傍系の王子の名前に「ヒコ〇〇」と付くことからも信憑するに足ると思われる。同時に、吉備氏や毛野氏などの地方王権や和珥氏、丹波道主などの朝廷と連携した主要豪族の系図を皇統に組み込んだ痕跡と推察される。(ただし、代数や名前は正確ではなく後世に造作されたものであることは、多くの歴史家の洞察の通りと思われる) 

 ヒコオオビビ(9代開化)の嫡子である崇神は、畿内北部に広大な勢力を持つ息長氏の祖ヒコイマス(彦坐)の異母兄弟であり、同時に蘇我氏などの祖である武内宿禰の祖父ヒコフツオシノマコト(彦太忍信)の異父兄と伝承される。この時代までの先行豪族勢力の血統を集約するとともに、のちの時代に活躍する豪族の元祖的存在と位置付けられている。息長氏はオキナガタラシヒメ(神功皇后)の出自であり、その権力を支えた長寿の臣下が武内宿禰である。

【考察2】疫病 
 即位5年目に疫病が流行して人口の半ばが失われるパンデミックに直面。2年後に、ヒコクニクル(8代孝元)の妹ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)に大物主神が憑依して託宣され、そのとおりに対策を打って疫病が終息し五穀豊穣となった。百襲姫を祀る箸墓古墳は最古の前方後円墳で、最新の考古学知見では3世紀中半~4世紀初頭の頃と推定される(魏志倭人伝の卑弥呼とほぼ同時期)。したがって、その2世代後の崇神は4世紀初期から中期頃の治世と推定される。

 邪馬台国畿内説に立てば、神を祀る巫女である百襲姫が女王卑弥呼に比定されるが、この前の70~80年間の「倭国大乱」が記紀には全く描かれていない(欠史八代)のが弱点である。また、纏向遺跡が倭人伝に詳しく記載されている「環濠集落」ではないことも大きい。崇神の2代後の景行時代から本格化する「熊襲征伐」伝承や6世紀の「磐井の乱」に比定される古墳の発掘成果を分析すると、邪馬台国九州説の可能性が高いのではないだろうか。

【考察3】四道将軍 
 即位10年、四道将軍を派遣したと伝わる。大彦命(9代ヒコオオビビ=開化の第1皇子)を北陸道に、武渟川別(大彦の息子で阿倍氏の祖)を東海道に、吉備津彦(7代ヒコフトニ=孝霊の皇子とされる)を西道(山陽道)に、丹波道主(開化の皇子とされる彦坐の子)を山陰道に将軍として遣わした。その直前、タケハニヤスビコ(武埴安彦=8代孝元の皇子)が謀反。北方の山背(京都府)と西方の大坂から都を挟撃されるも、吉備津彦命と大彦命、ヒコクニブク(彦国葺=和珥氏の祖)の活躍で叛乱は終息。四道将軍は翌年に戎夷を従わせたという。 
 
 これほど早期に成功した要因は、四道将軍の派遣が軍事侵攻ではなく、疫病に苦しむ地方を救援するための「応援部隊」だったからであると推定したい。重病者の救護や隔離、軽症者の治療や介護、食糧など生活必需品の提供、荒廃した村落の復旧作業(消毒・耕作地整理など)や労働力補充を含めた、多角的な救援活動を展開して、本州の各地域の立て直しに貢献した。このことが倭国統一への足掛かりを構築したと後世の歴史書(記紀以前の国記・天皇記や帝紀・旧辞などを含む)で綴られたのではないだろうか。 
 
【考察4】「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」の称号  
 疫病や反乱という危機的状況を克服した倭王権に各地の王権が心服し、吉備や丹波などを含む連合王権の盟主となった。吉備津彦や丹波道主などが皇統に組み込まれたのは、血族の盃のような盟約を交わした痕跡なのかもしれない。その後、戸口を調査して初めて課役を科す事業を成就するとともに、大規模な灌漑事業を行って農業を振興した。これらの業績で「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称えられたと伝わる。九州や出雲という並列する王権を圧倒する実力を名実ともに身につけた治世であった。

 なお、倭国よりも中国に近接している韓半島では、魏志韓伝で馬韓と辰韓と呼ばれた地域がそれぞれ統一されて、その後の正史で百済と新羅という王朝国家が成立している。この地殻変動と軌を同じくして、崇神が率いる倭王権の統一事業も4世紀半ばに本格化したと思われる。
 
【考察5】出雲平定 
 武埴安彦との戦いや四道将軍の活躍で勢力を拡大した倭王権は、素戔嗚時代から文明伝播の象徴であり内政と外交をリードしてきた出雲に謀略を仕掛ける。新宝を献上させる命を下し、これに対する出雲振根(いずものふるね)と弟の飯入根(いいいりね)の紛争への介入を口実に、吉備ら近在の勢力と合力して武力侵攻。長年の国家的課題であった旧宗主国出雲を完全に支配下に置くことに成功した。覇者交代を象徴する大事件であり、天孫族の直系たる九州倭国(ヤマトからは熊襲と蔑称される)を侵攻する決意を固める契機となった。

 後世から「熊襲征伐」と呼ばれる九州侵攻は、崇神の孫オオタラシヒコ(12代景行)からヤマトタケル(日本武尊)を経て、その子タラシナカツヒコ(14代仲哀)までの3世代にわたる長期戦であり、仲哀が討ち死にしていることからも相当な乱戦であったと推定される。  

【考察6】韓半島と本格外交 
 出雲平定の成果として韓半島との本格外交が始まった。任那が使者として遣わしてきた蘇那曷叱知(そなかしち)は崇神大王の死後も在日し、次のイクメイリヒコ(11代垂仁)の即位2年に任那へ帰国したが、その際に倭国からの交易品を新羅に奪われたといい、任那と新羅の抗争はここから始まると記述されている。

 垂仁期の記述には帰国の際に垂仁が任那の国名を父ミマキイリヒコの名に因んで命名したとの説や、新羅から渡来したアマノヒボコ(天日槍)の末裔タジマモリの常世国のエピソードが収録されている。古代の大きな転換期にヤマトを治めた神功皇后という偉大な指導者(かつ巫女)の系譜を組み込んだ影響と考察したい。

 神功皇后の摂政としての治世と、その後継ホンダワケ(15代応神)が君臨した時代は、おそらく任那の鉄を守るために韓半島で激化した戦乱に本格介入した「三韓征伐」に適合する。この戦争は、金石文として史料価値の高い「好太王碑」において、倭国が391年に百済や任那に軍事侵攻して従属させたが、高句麗が激戦の末に打ち破って404年に撤退させたと謳いあげられている。

 河内に世界最大規模の王墓(応神天皇陵や仁徳天皇陵)を築いた応神の権力掌握の経緯や、曽孫にあたるワカタケル(21代雄略)の絶頂期と急激な衰退、越の国から応神5世の孫の名目で乗り込んで輿入れしたヲオド(26代継体)の列島を横断する壮大な興亡については、研鑽を深める時間を確保して取りまとめて、『続・倭国大王列伝』として後日に掲載したい。ご了承をお願いする次第である。

倭国大王列伝(2)

2021.01.04 (Mon)
2.カムヤマトイワレヒコ(神武天皇) 
 
 天孫のニニギ(天津彦彦火瓊瓊杵)が筑紫に降臨し、その孫にあたるウガヤフキアエズ(鸕鶿草葺不合)の末子(天照の5世の孫)であるヒコホホデミ(彦火火出見)が、日向の高千穂で兄の五瀬(イツセ)らに対し東方への遠征を提案。有名な「神武東征」である。軍勢を率いて日向から豊国の宇佐に着いた後、筑紫の岡田宮で1年、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごしたという。
 
 浪速の白肩津で迎え撃ったトミノナガスネビコ(登美能那賀須泥毘古)の軍勢と交戦。イツセの負傷(その後死亡)など打撃を蒙って撤退し、紀伊半島を迂回して熊野から上陸。八咫烏の協力を得た行軍は険悪な山道のため苦難を極めたが、地域に盤踞する豪族との戦いを重ねる中で勢力を拡大し、遂にナガスネビコとの決戦を制した。

ニギハヤヒ(饒速日)を奉ずる地元豪族を調略して婚姻関係を結び、畝傍の橿原宮で即位。ヒコホホデミはカムヤマトイワレヒコと諡(おくりな)された。(のちに奈良時代の淡海三船が「神武天皇」などの漢風諡号を一括で追贈する) 神武がヤマト王権の初代大王となった事跡を検証し、歴史事実の反映をあぶり出してみたい。 

【考察1】出立の地 
 天孫のニニギが筑紫に降臨して以降は、次の世代の海幸彦山幸彦の神話や、孫の世代のウガヤフキアエズとワダツミ(海神)の娘との婚姻神話が綴られている。天孫勢力(ウガヤ王朝との伝承もある)が九州地方の主力であった海人族と外交を重ねて覇権を確立した経緯の痕跡ではないかと考察したい。高天原から降臨した地が出雲ではなく筑紫であることは、大国が天国(天照の勢力)に筑紫島(九州)を割譲したのではないかと思われる。

 日向(宮崎県)にも多くの古墳が残るが、地政学的に九州の中心地である筑紫や有力国である火(肥=佐賀・長崎・熊本県)や豊(福岡・大分県)から見て周辺の地であり、そこから出発したとされるヒコホホデミらは正統な王権(ウガヤ王朝)の傍流であったと推定される。

【考察2】東征の大義名分  
 東征の理由には、幾つかの想定が考えられる。後漢書や魏志倭人伝に「倭国大乱」とある動乱期に、邪馬台国連合の混乱とそれに乗ずる狗奴国(くぬこく?=熊襲)の侵攻によって危殆に瀕した日向が瀬戸内海を東進したのではないか。あるいは、大乱のさ中に戦略の一環として王族のヒコホホデミにウガヤ王朝の中枢から指令が下され、倭国に非協力的な勢力(ニギハヤヒを奉ずる畿内エリア)を服属させる軍事侵攻であった可能性もある。この推理は、九州の窓口(宇佐)や瀬戸内海の王権(阿岐や吉備)では戦闘が無く、軍備を整えていることからも伺える。もう1つの仮説は、筑紫や宇佐、安芸や吉備という製鉄の地域が漸進的に勢力を東に延伸していったプロセスが伝承され、それが記記に収録されていったとも考えられる。

【考察3】戦闘経過 
 記紀には神武東征の経緯がドラマチックに描かれている。ヒコホホデミ軍が浪速(波が困難な地=難波)に侵攻して河内湾から上陸した際に草香邑(東大阪市)の孔舎衛坂でナガスネビコに迎撃され、長兄イツセが流れ矢にあたって負傷した。日の神の子孫の自分たちが日に向かって戦うことは天の意思に逆らうと悟り、軍勢は海路南へと向かった。イツセは茅渟(和歌山市近辺)で亡くなり、船は熊野付近で大嵐にさらされる。次兄と三兄が自らを犠牲にして波浪を収めたが船が大破し、止むを得ず熊野から上陸したものの、毒気(疲労や土地の衆の提供した丹か?)を受け軍衆が倒れる。

 そこへ熊野高倉下が現れ、天神から授かった神剣韴霊(ふつのみたま)を奉ることで気を取り戻して進軍を再開。天照大神が八咫烏を遣わしたとの神意を旗印に宇陀地域や磯城地域に到達し、武力と調略を駆使して豪族を恭順させる。最終決戦では、王権の証である神器を見せつけることでニギハヤヒの名のもとでナガスネビコを誅殺。ヤマト(大和)地方の支配権を簒奪した。

【考察4】戦後処理 
 事代主神の娘(現地の最高権力者の一族)ヒメタタライスケヨリヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)を正妃とした。道臣命や大来目らの子飼いに領地を封ずるとともに、侵攻時に協力した現地の豪族らに本領を安堵。ヒメタタライスケヨリヒメを迎えるにあたり大来目の入れ墨(魏志倭人伝で克明に記述される風習)に困惑したとのエピソードも残されている。
  
 その死後に、九州時代に儲けた長子タギシミミと地元のヒメタタライスケヨリヒメ所生の王子との後継者争いが勃発し、カムヌナカワミミ(神渟名川耳=第2代綏靖)が勝利して即位した。母系社会の視点から考察すると、筑紫から来襲したヒコホホデミ(イワレヒコ=初代神武)の血筋を受け入れた上で、従来のニギハヤヒ系統と習合したと言えるのではないか。

 カムヤマトイワレヒコとの諡号は、前方後円墳発祥の地とされる纏向遺跡を擁するヤマト(奈良県)を都と定め、倭王権を創始した「謂れ」を物語る。初代大王である神武は、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられて後代に伝承された。なお、「ヤマト」の名称は九州の倭人連合の首都「邪馬台国」(山戸郡か?)を襲名したと考えられる。 

倭国大王列伝(1)

2021.01.04 (Mon)
はじめに
  
 昨年(2020年)は、日本最古の正史「日本書紀」が養老4年(720年)に完成して1,300年にあたっていた。コロナ禍で式典や地域行事、シンポジウムなど各種イベントが中止となる中、時間の合間を利用して古代史の関連書籍を紐解く機会があった。令和新時代を切り開きゆくためにも、透徹した歴史観を養う意義は大きいとの想いで研鑽を重ねたところ、いくつかの望外の発見があった。古代史を彩る大王の列伝という形式で考察したので、心ある読者の叱声を求めたいと思う。
 
 2020年のお盆休みに『国主諫暁についての一考察』(未完)を発表したが、今回のお正月休みの文章は『倭国大王列伝』と銘打っている。独りよがりの考察ではあるが、知的刺激は少なくないと思うので歴史に関心ある方に読んでいただけたら幸いである。なお、長くなるので数回に分割してアップすることをご了承願いたい。

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1.オオクニヌシ(大国主命)

 出雲神話(因幡の白兎、八十神の迫害、根の国訪問、大国主の妻問い)の主人公であるオオクニヌシ(大国主命)は、日本書記や古事記(記紀という)および新撰姓氏録などによると、スサノオ(素戔嗚)の六世の孫であるが、同時に嫡子とする伝承もある。 

 スクナビコナ(少彦名)と協力して天下を治め、禁厭(まじない)や医薬などの道を教え、大物主神(おおものぬしかみ)を祀ることによって葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させたとされている。文字通り「大国の主」として君臨していたが、高天原の使者と交渉し国譲りを承諾し、その結果としてアマテラス(天照)を奉ずる勢力(天孫)が筑紫に降臨した。

 これらの神話(伝承)は全くの虚構ではなく、人々に語り継がれた歴史事実の反映ではないだろうか。その立場からわが国の創世記を復元してみたい。

【考察1】 日本人のルーツ 
 魏志倭人伝をはじめとする中国の歴史書の記述から、春秋時代後期の呉と越(呉越同舟や臥薪嘗胆のエピソードが史記に語られている)が滅亡した際に、その末裔が列島に渡来して稲作や製鉄などの最新文明を伝えた痕跡が伺える。鉄器は農機具や灌漑用具であるとともに武器になる。邑がクニに発展する過程で、権力の魔性に魅入られた攻防戦が繰り広げられ、それに伴って科学技術の進展が飛躍していった。

 周代に交易に訪れた(朝貢)と記録されていることから、倭人が現在の朝鮮半島南部にも居住していた可能性が高い。新羅の第4代王(脱解尼師今)が倭国東北一千里にある多婆那国(但馬・丹波地域に比定)から流れてきた卵から生まれたと三国史記が伝えていることや、倭人伝に1年の航海で裸国や黒歯国に至ると記されている事実からも、現代の我々が想像する以上にダイナミックな交流が繰り返されていたと推定される。 

 倭人伝に「倭の北岸」と記載されている狗邪韓国は、同じ魏志の韓伝に記載されている弁辰狗邪国と同じ国で、倭と韓が同時に領有権を主張していた(21世紀の現代と同じように)と思われる。この地は鉄を産出することで大いに栄え、そのために韓半島の主要国(百済や新羅)と対岸の倭国(対馬・壱岐・九州)がせめぎ合う攻防の焦点になっていた。これが高天原(狗邪=伽耶)で素戔嗚が暴虐行為をした伝説の原型と思われる。

 倭人の本拠である伽耶の天照と、中国の後裔の伝説を持ち倭人と関係が深い新羅の素戔嗚は、長年の恩讐を踏まえて交渉を重ね「姉弟」の盟約を結んだ。素戔嗚が数代早い時期に日本海岸(出雲・但馬・丹波・越)に着き、在地勢力と硬軟あわせた交渉の結果、権力者として代々治めていた。これが「姉弟」なのに数代の誤差(素戔嗚6代のオオクニヌシと天照の孫ニニギの天孫降臨伝承)がある理由ではないだろうか。 

【考察2】出雲が列島の中心
 古来10月は「神無月」と言われ、諸国の神々が出雲に参集するとされた。江戸期の参勤交代のような統治システムが想起される。同時に、出雲のみ「神在月」と言っていたとの伝承は、出雲が豊葦原中国の中心であり、文明の窓口であった事実の反映と思われる。
 
 製鉄や治水、灌漑、物流などの起点である出雲が各地域との交流を重ねる中で大八島(葦原中国)の盟主となり「大国」が形成された。多彩な出雲神話の数々は1人の人格の業績ではなく、複数の歴代大国主の事跡を集積したものである可能性を指摘したい。多くの別称や多妻の伝承は、その名残であると考察する。
 
【考察3】国譲りの真相
 記紀には国譲りが段階を踏んで進められた挿話が記述されている。高天原の列島への進出に際しては、アメノホヒ(天穂日)を先発として派遣したが成功しなかった。次にアメノワカヒコ(天稚彦)が婿入りしたが進展せず、疑心暗鬼となった上層部に暗殺される。ところが、高天原の葬儀に弔問で訪れたアジスキタカヒコネ(味耜高彦根=大国主の皇太子)がトラブルに巻き込まれ、国を揺るがす紛争に発展する。

 そして、これを口実として経津主神(磐筒女神の子、下総国香取の神)と武甕槌神(甕速日神の子、常陸国鹿島の神)が軍隊を率いて強引に交渉し、大筋で妥結するも建御名方が抵抗して武力衝突。敗走した建御名方は科野(信濃)国で降伏したという。それほどの大規模な戦いであったと思われる。しかし記紀によれば、出雲はその後も数百年もの間、一定の勢力を保ち独立国として存続したことが記紀の伝承から推察される。(第10代崇神の回で後述) 

NHKスペシャルと記憶するが、出雲大社は現存に倍する高層建築だったと分析する番組があった。そこで、高層の社が「灯台」の役割を果たしていたと言及されており、大いに首肯したところである。出雲の王権は荒神谷遺跡から大量の銅剣や銅鐸が出土しており、たたら製鉄の伝承も多いことからも、古代倭国の中心地であったことは間違いない。その大王である大国主に慎重かつ大胆に外交を展開した「天孫族=天国」が、のちに九州を本拠として韓半島や中国の王朝と渡り合ったと思われる。  
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