吉田たかおのよしだッシュブログ

京都市会議員 (公明党)・吉田孝雄が日々感じたことを綴ります。

自治体総合フェア2024研鑽レポート

2024.05.18 (Sat)
5月15,16日、東京都江東区の東京ビッグサイトで開催された「自治体総合フェア2024」に参加しました。

240515自治体フェア入り口

日本経営協会が主催する「自治体総合フェア」、第28回目の本年は、持続可能な社会を目指す自治体の課題についてDXの知見や事例を研鑽すると共に、企業立地のPRブースが一同に会する貴重な場ですので、15日早朝6時前に自宅を出て、新幹線やゆりかもめ等を利用して会場入りし、10時30分から4つのセミナーを順次受講しました。

夕方は区内の宿舎で復習した後に一泊。16日も公共交通機関で会場入りし、3つのセミナーを受講する合間に、企業立地ブースを回って見聞を広めました。下記に、受講したセミナーを紹介します。

【15日】
240515自治体フェア15日

「自治体DXの更なる推進について」(総務省・志賀地域DX推進室長) 

「自治体がニコニコ没落するために」(成田悠輔氏)

「防災DXの現状とやるべきこと」(官民共創協議会・江口専務理事)

「まちに本気で取り組む人の増やし方」(東海大学・河井客員教授)

【16日】
240516自治体フェア16日
 
「地方公共団体基幹システム標準化について」(デジタル庁担当者)

「デジタル田園都市構想Digi田甲子園受賞事例紹介」(西内閣審議官)

「Wel-beingに基づくまちづくりの潮流」(会津若松市・本島室長ほか)

240516自治体フェアセミナー

そこで得た知見を下記に列記します。(ダイジェストです)

(1)DXは、それ自体が「目的」ではなく、業務効率化と住民サービス向上の「手段」であること。

(2)自治体内で、最新技術や情報を把握し、行政課題の解決にマッチアップするデジタル人材「DX推進リーダー」の育成と活躍が極めて重要となること。

(3)自治体のデータ利活用は、既成概念や成功例にとらわれず、古い価値観から脱却する勇気が必要となること。(成田氏が戦後に潔く「没落」を選んだ渋沢財閥を紹介していました)

(4)能登半島被災地支援で活動した教訓は、データを重視した「予測」「早期対応」「情報共有」が重要で、「災害関連死ゼロ」を目指すために弛みなき改善が必要であること。

(5)茨城県小美玉市や愛知県春日井市の先進事例は、行政主導では依存が避けられないので、「市民の主体性」が鍵であり、参画・協働した方が称え合う姿勢が重要であること。

(6)基幹業務標準化は、令和7年度の実質スタートに当たり、地方と国の情報共有が最終段階で成否を分けると判断し、政府は自治体に寄り添う姿勢を示していること。

240516企業立地ブース

民間企業のブースは活気にあふれ、魅力的な最先端技術が紹介されて目が眩むほどでした。自治体ブースでは、われらが京都もリサーチパークの若手の方が行政職員と共に、熱意ある企業立地PRを展開され、心が弾みました。頑張ってほしいです!

240517委員会質疑

デジタル田園都市構想のセミナーでは、「Digi田甲子園」という地方発のDX活用コンテストで優勝した愛知県豊田市上下水道局の事例が素晴らしかったです。人工衛星とAIを駆使した「水道管健康診断」の推進で効率化と迅速化を実現し、国連の会合でも発表するとのこと。さっそく、17日の京都市会産業交通水道委員会で取り上げ、京都市としてもデジタルの有効活用を積極的に展開するよう求めました。  

未来の部活動についての一提案(後編)

2024.05.13 (Mon)
【2つの具体的提案】
 1つは「長期リーグ戦方式」である。野球やサッカーなどの球技において、夏季大会や秋季大会を一発勝負のトーナメントではなく、W杯アジア予選のような「1次予選」や「2次予選」を長期にわたってリーグで戦ってはどうだろうか。

 例えば、京都市でいえば洛中圏(上京・中京・下京区と南区)と洛北圏(北区と左京区)と洛東圏(山科と東山区)と洛西圏(右京・西京区)及び伏見区の5圏に分け、各圏で数Gに分けてリーグ戦を行なう。1G4チームなら最低でも3試合できる。2次リーグ(チーム数によっては3次)を勝ち抜くと各圏代表の最終予選を行ない、これはトーナメントでも良しとする(サッカー予選も同じなので)。

 そこで面白そうなのは、社会人野球の都市対抗で導入されている「選手補強」という制度ではないだろうか。2次予選や最終予選に勝ち上がったチームに、敗退したチームの有望選手、たとえばピッチャーやGKなどを加入させて試合に臨むのである。この補強制度は、サッカーでも戦後間もない時期に都市対抗の全国大会で当たり前のように実施されており、「全京都」とか「全大阪」というネーミングになり、それが「全日本」すなわち日本代表チームを編成して対外試合の代表選手を選抜していったのである。高校は良いが中学は難しいとか、補強は何人まで認めるかなど、細かなルールは詰めていかなければならないが、一考の余地はあると考える。

 もう1つは「合同チーム制」である。これは、球技や格闘技に限らず、採点競技やタイム競技などほとんどの競技で、選手や指導者の減少に苦しんでおり、「〇〇中学」や「△△高校」という単独チームでは先が見えないことを直視して、思い切って地域で合同チームを編成するのである。

 種目によって違うだろうが、例えば中京区で5チーム、右京区で8チーム、伏見区で12チームを編成(奇しくも議員数と同じである)することで、各チームで複数のコーチが指導や強化の方針を協議し、選手選考や起用などもサポートし合うことができるし、選手同士のトラブル対応などに対しても、1人で全責任を抱え込むことなく、複眼的に指導育成することができる。昨今の大きな課題である「負担軽減」「働き方改革」につながるのではないだろうか。

 この合同チーム制は、さきほどの「選手補強」でも言及したが、地元地域のライバル同士が競い合い励まし合って、良い意味の切磋琢磨する中で、他者をリスペクトする協調性も育んでいけるであろう。同時に、地域で合同チームを編成することは、地域ぐるみのスポーツ振興の協力体制や地元に住む多世代の市民(元選手や大学生、OB・OGなど)からのサポートなどについても、無理なく自然な在り方で「地域移行」していくのではないかと思う。

 検討会でも意見が出されていたが、教員から「地域のおっちゃん」に全面的に、そして拙速に移行することは、様々な問題点が噴出すると懸念されるし、教員が部活に携わりたいと思っている割合が少なくないとの調査結果もあるのであれば、私は「地域移行」の漸進的なアプローチの一環として、「合同チーム制」を検討する意義があると提案したい。

【文化系部活の提案】
 吹奏楽や合唱、演劇など文化系の部活動は、コンクールや発表会、学校行事や地域行事への参画などがある。これらはいずれも、生徒たちにとってかけがえのない「学びの場」であり、スポーツ系の部活に勝るとも劣らない意義があることは言うまでもない。同時に、所属部員の減少や指導者の負担という問題についても、同じく深刻な課題を抱えている。

 私はここでも、「合同制」を提唱したいが、少しニュアンスが違う。地域ごとにブロックを割って、複数校でチームを編成してコンクールに挑む、というやり方は同じだが、それだけでなく、校内で複数の部が合同で発表することも1つではないか。私のアイデアは、文化祭などで「ミュージカル」を上演するというもので、吹奏楽と合唱部が音楽を担当し、脚本を文芸部、設営を美術部、演技と演出を演劇部が担当することで「総合芸術」を、部の垣根を越えて作り上げていくことが出来るのである。是非チャレンジしてほしい。かけがえのない経験となるし、保護者や地域の方々が喜ぶのではないだろうか。
 
 さて、私の娘は3人とも、中学の部活は吹奏楽部であったが、そのうち2人が塔南高校(現・開建高校)に進学し、コンクールで何度も全国大会に出場するなど、貴重な青春の1頁を刻んだ。この高校の吹奏楽部は、以前から他とは違うユニークなスタイルをとっており、手前味噌かもしれないが、私は「未来の吹奏楽活動の在り方」を先取りしていると思っている。何かというと、高校生は平日夕方に練習するが、土日にはOB・OGの学生や社会人が「一般メンバー」として加わり、コンクールの練習を重ねるのである。コンクール以外にも、他団体とのジョイントコンサートや全校生徒や保護者らを招いた発表会に加え、南区の地域行事などで演奏したり、野球部の応援のブラバンとして友情出場もしている。

 「一般メンバー」は高校時代に基礎ができているので、土日や本番前の期間でも十分であり、高校生は平日に連日練習するため上達が早く、多世代の融合で良い化学反応を示すと思う。それだけでなく、「愛校意識」は共通なので、目標に向けて心を合わせ団結する、かけがえのない経験を積むことが出来るのである。この「塔南(開建)方式」は、他の多くの団体にとって参考になると思う。検討する価値があると申し上げたい。

【さいごに】
 以上、様々に提案させて頂いた。僭越ではあることは言うまでもないし、その通りに実施することを求めるつもりは元よりない。京都市が抱える様々な課題に取り組む、多くの方々と心を合わせ、微力ながらも貢献したいとの思いで綴らせて頂いた。

 検討会の当日に、勢いのままに書いたものであるので、立論や文章に齟齬が多いかと思うが、熱意の表れと寛恕して下さればありがたい。(おわり) 

未来の部活動についての一提案(前編)

2024.05.13 (Mon)
【はじめに】
 私は、2021年2月市会本会議代表質問で、働き方改革の一環で「部活動」の在り方に言及し、教員の負担軽減や地域との連携・協働が重要と論じた。

 また、文科省が2020年9月に「学校の働き方改革を踏まえた部活動改革」を打ち出し、それを受けて本市も「学校部活動及び地域クラブ活動の在り方検討委員会」が設置され、本年1月に第1回検討員会が開かれた。その時には所要のため欠席したが、本日(5月13日)開催された第2回検討委員会には幸いにも傍聴することが出来た。記者席や傍聴席が満員になるほど多くの方が見守り、関心の大きさを改めて実感した次第である。

 スポーツ競技において、目指すものは多岐にわたる。トップアスリート育成、若い世代のすそ野の拡大、生涯にわたる多世代がスポーツを楽しむ環境の整備などであり、こうした幅広い目的が混在しているという点では、吹奏楽や合唱、ダンスなど文化芸術の在り方にも共通している。

 わが国は近代以降、学校教育の一環としてスポーツや音楽などでは、学校単位でチームが結成され、対抗戦方式の大会が開催されてきた。甲子園に代表される「全国大会」の頂点を目指して鍛錬を重ね切磋琢磨する中で、日本代表やプロ選手を輩出してきた。その基盤を支えてきたのが中学高校の部活動であったのである。

 しかし、21世紀に入り、価値観の多様化と少子高齢化の影響で、中高の部活動の根幹が揺らいでいる。部活動の未来は極めて重大な課題である。自分自身も青春の日々に部活動で汗を流した1人であるし、子どもたちも部活でお世話になっており、その保護者として経験も積ませて頂いた。

 今回、検討会の議論を直接お聞きすることで、大変に勉強になった。また、これに触発されて、以前から自分なりに温めていた構想が動き出したような手ごたえがあった。そこで、京都の部活の未来のために私見を文章化し、具体的な提案をさせて頂きたい。この提言がきっかけとなり、各方面の皆さんの議論が活発化して、具体的な検討に少しでも役立てば望外の喜びである。

【競技スポーツの問題点について】
 競技スポーツはいくつかに細分化される。1度の大会でタイムを競う陸上と水泳や、採点を競う体操やダンスがあり、ボールを使って点数を奪い合う球技は、野球・サッカー・バスケ・バレーなどの団体戦と、個人・団体のパターンがある卓球やテニス、バドミントンなどがある。もう1つの格闘技は、柔道や剣道、レスリング、ボクシングなど、基本的には1対1の対戦である。

 これらに共通するのは、中高では部活のチームで地元の市内や県内でトーナメントを勝ち抜き、学校や府県の名誉をかけて全国大会(インターハイ・インターミドルなど含む)で覇を競うのだが、小学校時代は部活ではなく、少年団やリトルリーグ、地域伝統のクラブや道場で基礎を学ぶ、という点である。そして、中学で活躍した選手は強豪校からスカウトされるが、それ以外は公立校で踏ん張るか、あるいは競技者から一線を引いて応援に回る、というケースが多いのではないだろうか。

 しかも、球技や格闘技は、中高とも競技大会のほとんどがトーナメント方式のため、1回戦負けしたら2戦目はない。敗けた反省を次に生かせないし、勝ち進めば連戦の酷使が選手に負担をかける。最近は昔と比べて日程の編成面では配慮されるようにはなったが、「負ければ終わり」に縛られる点は変わらず、勝利至上主義に陥ってしまう弊害が避けられない。しごきや体罰、いじめ、不正などの不祥事が後を絶たない原因とも言えよう。強豪校では3年間1試合も出場できない優秀な選手が数多く、そうでないチームの選手は1、2試合で去らざるを得ない。ある意味、理不尽な部分が大きいと言えるのではないだろうか。

 もう1つの問題点は指導者である。球技や格闘技でもそうだが、タイム競技や採点競技は特にコーチの指導力が問われる。才能ややる気があってもコーチに合わない選手は移籍できずに燻ったり、コーチの異動や引退がチームの浮沈を左右してしまう。コーチの側も時代を先取りするトレーニングやメンタル面の指導の「改善」が常に求められるのである。

 水泳や体操、あるいは卓球などでは、子どもの時からの地域クラブに所属したまま大会に出場するケースが多いし、陸上も地域クラブの存在がクローズアップされている。一方、球技ではコーチが10年も20年も異動しない私立校の方が、数年で転任を余儀なくされる公立校よりもはるかに有利であり、この傾向は近年、顕著になっていると思うのは私1人では無い。

 サッカーは90年代からJリーグ百年構想で、地元密着のクラブチームがユース部門を強化し、人材を発掘すると共に、すそ野を広げようというミッションを掲げている。これらは功を奏していると思うが、高校世代ではユース大会と全国選手権が分かれるという、避けて通れない弊害が表面化している実態も見受けられる。これを解消するために、一部の強豪校とユースチームをピックアップした「ダイヤモンドリーグ」を編成しているが、かえって強豪チームとそれ以外の実力差が顕著になっているというジレンマもあるのではないだろうか。

 こうした問題点は、いち早く地域クラブを打ち出したサッカーに限らず、その他の球技でも、あるいは格闘技などでも、大なり小なり表面化してくると思われる。そこで、私はその解決策として2つの提案をさせて頂きたい。(つづく)

“突き抜ける”文化人上田秋成を推す!

2024.05.06 (Mon)
【はじめに】
 近世文学の最高峰『雨月物語』の発刊(1776年)から、間もなく250年になる。作者の上田秋成(1734~1809)は、江戸時代中期から後期に上方(京都・大坂)で活躍した文化人であり医師でもあったが、『ぬば玉の巻』という『源氏物語』の注釈書を著しており、『古事記伝』や『源氏物語玉の小櫛』の本居宣長(1730~1801)と論争を展開した国学者でもあった。
 
また、伊藤若冲(1716~1800)、円山応挙(1733~1795)や頼山陽(1781~1832)などの錚々たる文人と京都で交流しただけでなく、江戸の蔦屋重三郎(1750~1797)や喜多川歌麿(1753~1806)、大田南畝(1749~1823)、葛飾北斎(1760~1849)、曲亭馬琴(1767~1848)ら、絢爛たる化政文化の立役者たちと同時代を生きた人でもあった。

 秋成は1793年から亡くなるまでの晩年を京都で暮らし、墓が南禅寺東側の西福寺(左京区)に、歌碑が梨木神社(上京区)にある。壮絶な出自や障がいを乗り越え、苦難を文学の糧とした「人間ドラマ」を生き抜いた秋成は、現在放映中(2024年)の大河ドラマ『光る君へ』と、来年(2025年)放映予定の『べらぼう』の、どちらにも縁(ゆかり)があるという稀有な存在である。

 京都観光のモチーフとしてもってこいであるが、それだけでは余りにもったいない。“突き抜ける”文化人の先駆者である秋成の生涯を知り、作品に触れることは、文化芸術の多角的な振興に大きな価値があると確信し、心から「推し」てまいりたい。

【波乱万丈の半生】
 享保19年(1734年)大坂曾根崎で私生児として生まれた秋成は、満3歳で堂島の紙油商嶋屋を営む上田茂助の養子となったが、翌年に疱瘡の後遺症で手の指が曲がったままとなる。出生の秘密と後天的な障がいは秋成に大きな影響を与えたと思われるが、環境に左右されず勉学に励み、和漢の古典や俳諧、戯作など幅広く文学を修めた。

 宝暦10年(1760年)、京都生まれの植山たまと結婚。子はできなかったが、妻を瑚璉尼(これんに)と呼び、その由来を「コレコレと呼ぶに勝手が良い」とユーモラスに描いている。彼女に先立たれた時は「こい転び足摺しつつ」嘆き、自殺まで考えたほど愛情を注いだようである。

 明和3年(1766年)と翌年、『諸道聴耳世間猿』(しょどうききみみせけんざる)と『世間妾形気』(せけんてかけかたぎ)という浮世草子2冊を上梓し、その翌年に初期読本の傑作『雨月物語』初稿を書き上げるなど旺盛な執筆活動に入ったが、同8年(1771年)に嶋屋が火災で破産してしまう。苦境にめげることなく、医学を都賀庭鐘に学び、安永5年(1776年)に大坂高麗橋で医師として開業すると共に、『雨月物語』を出版するのである。

 最晩年の随筆集『胆大小心録』(たんだいしょうしんろく)の回想によると、納得のいかない症状の患者には頼まれもしないのに日に二度三度と往診し、診断に迷うと他の医者に回したうえで毎日見舞いに行ったという。幼女を誤診で死なせたときには激しく懺悔し廃業を決意したといわれる。

【多様な文学活動】
 このころから国学研究に熱中し、安永8年(1779年)に『源氏物語』の注釈書『ぬば玉の巻』などを執筆。天明4年(1784年)に考証「漢委奴国王金印考」を、翌年に『万葉集』研究「歌聖伝」を発表すると共に、同6年(1786年)には本居宣長と歴史に残る論争を展開している。翌年には、戯作『書初機嫌海』(かきぞめきげんかい)と俳文法書『也哉鈔』(やかなしょう)を上梓した。

 寛政2年(1790年)に左眼を失明するという悲運に見舞われる。同5年(1793年)に京都東山の袋町に移った後は、住居を転々としながら古典の校訂で身を養い、同9年(1797年)に妻に先立たれた。翌年、右目も失明するが奇跡的に回復し、洛中の貴族や文人をはじめ、江戸の大田南畝らと交わる。同11年(1799年)は平安時代の『おちくぼ物語』を校訂し発刊している。

 万葉集論『冠辞続貂』(かんじぞくちょう)や歌文集『藤簍冊子』(つづらぶみ)、書簡集『文反故』(ふみほうぐ)を出版するも、心血を注いで改稿を重ねた『春雨物語』は日の目をみないまま、文化6年(1809年)に没し、西福寺に葬られた。『雨月物語』と並ぶ傑作『春雨物語』は写本でのみ伝わっていたが、昭和戦後に完本が発見され復刻刊行されるという数奇な運命を辿っている。

【さいごに】
 上田秋成は、私生児として生を受け、幼少期の病によって障がいを背負い、不慮の火災で家業が倒産するも、医師として身を立て、江戸中後期の上方文化をけん引した。晩年も失明の危機を克服し、全ての「古典全集」にピックアップされる傑作を残した。まさに時代を画する突出した偉人であり、京都人の誇りといって過言ではない。 

 『雨月物語』の序文で、秋成は『源氏物語』を書いた紫式部と、『水滸伝』の作者・羅漢中と比べ、自分の作品は杜撰で荒唐無稽と謙遜している。しかし、逆に言えば、彼らと比肩するだけの自負を持って世に問うたと宣言したと言えるのではないだろうか。

 この物語のうち「浅茅が宿」と「蛇性の婬」の2編をモチーフにして、溝口健二監督が1953年に映画化し、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞した。この映画『雨月物語』は世界の映画史に残る作品として高い評価を受け、英国映画協会が10年ごとに発表している「映画評論家が選んだ史上最高の映画べスト100」で、1962年から最新の2022年まで全てランクインしているほか、2005年にタイム誌が発表した「史上最高の映画100本」や、2018年にBBCが発表した「史上最高の外国語映画ベスト100」にも選出されている。 

こんな大河を視てみたい!(その2)

2024.04.20 (Sat)
【仮称・平安の大将軍】
 先日アップしたつれづれトークが好評でしたので、調子に乗って第2弾をお届けします。今回は時代を大きくさかのぼって、大河史上最も古い時代、坂上田村麻呂とその父親苅田麻呂が主人公です。仮タイトルは「平安の大将軍」でいかがでしょうか?
 
 主人公の坂上田村麻呂は実質的な初代征夷大将軍であり、清水寺の創建者としても有名です。また、身長は約180センチで、後ろから見ても前から見ても巌石のような偉丈夫であったと伝えられており、目は鷹の蒼い眸のように鋭く、鬢は黄金の糸を紡いだように光っていたといいます。エキゾチックですね。
 
 しかし、坂上氏はかつて反逆者の汚名をつけられた家系であり、そこから盛り返して天皇の親任を得て活躍をするという、ある意味ドラマチックな歴史があるのです。
 
【父・坂上苅田麻呂】
 2人の先祖・阿知使主(あちのおみ)は、応神天皇の時代に百済から帰化した渡来人であり、後漢の霊帝の末裔を名乗ります。東漢(やまとのあや)が奈良県の明日香村の地域、西漢(かわちのあや)が大阪府の古市に本拠を構えたようです。応神天皇陵のあたりです。
 
 漢と書いて「あや」と読むのは、織物や工芸の技術が謂われとのこと。同時に、土木や建築の技術、そして軍事の面で貢献をしてきました。
 
 その4代目がいくつかに分家し、そのうちの1つが坂上を名乗ります。これが坂上駒子と言いますが、日本書紀では東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)と書かれています。

 歴史好きな人はピンと来るかもわかりません。この東漢直駒は、蘇我馬子の命令で、崇峻天皇を暗殺すると言う歴史上始まって以来のテロリストの役割を演じてしまい、その挙句に口封じのため殺されてしまうのです。いわば血塗られた汚名を着て、一族は没落してしまいます。
 
 その後3代にわたって雌伏の時を堪えますけれども、坂上老(おゆ)と言う人物が壬申の乱で活躍して復権。そして奈良時代、孫の犬飼が武芸の才能を発揮して聖武天皇の信頼を得て昇進します。これが苅田麻呂の父親です。
 
 主人公の1人である坂上苅田麻呂は大きく3つの功績を残しました。1つは橘奈良麻呂の乱で活躍し、クーデターを未然に防ぐ役割を果たしました。2つ目は藤原仲麻呂の乱です。最大の権力を握っていた仲麻呂が上皇と天皇の争いに乗じて、自分が天皇になると言う野望を持ち、玉璽を奪う暴挙に出た時に、苅田麻呂が放った矢が戦局を動かし、恵美押勝と名乗った仲麻呂は滅亡します。
 
 有名な吉備真備が軍略を建てて鎮圧した功労者ですが、具体的に作戦を実行したのが、若手の兵(つわもの)たちであり、苅田麻呂がその中心にいたのではないかと思います。
 
 なお、真備は当時70代の高齢でしたが、その直前に仲麻呂によって九州に左遷されていました。名目は唐王朝の混乱によってわが国が襲撃されるかもしれないということで、派遣されたわけです。当時の唐は、玄宗皇帝の時代で安禄山の乱で都落ちし、楊貴妃が殺害されるという大混乱になっていました。その隙に乗じて実は新羅への出兵が計画をされたのですが、それは取りやめになりました。私は、太宰府にいた真備と都の苅田麻呂たちが連携して無謀な軍事計画を断念させ、平和を勝ち取ったのではないかと推測しています。
 
 3つめは、道鏡事件です。女帝・称徳天皇が僧侶である道鏡を寵愛して、政治が乱れていましたが、天皇自身はもう結婚しないということで、道鏡を次の天皇につけると言う驚天動地の決定を下そうとします。それに対して和気清麻呂が勇気を振り絞って宇佐神宮の神託を報告し弾圧を受ける事件がありましたが、その時に苅田麻呂が清麻呂を守る側に立ち、天皇が亡くなった後、道鏡の野望を打ち砕く活躍を見せたのです。これが父親である苅田麻呂の3つの大きな業績だと思います。
 
【子・坂上田村麻呂】
 さて、その息子坂上田村麻呂も、同じく3つの偉大な業績があります。1つは、桓武天皇の蝦夷への平定作戦の戦い(征夷)に早くから従事し、本格的な征夷大将軍に任命されて活躍。蝦夷の大将であるアテルイを降伏させたことです。軍事力で追い詰めるだけでなく、人格を前面に出して感服させ、平和交渉の結果、都に連れて来たのです。
 
 ここで講和条約が結ばれれば素晴らしかったのですが、朝廷の決断は田村麻呂の願いを裏切って、アテルイを処刑してしまうのです。悲劇としか言いようがありません。アテルイの慰霊碑は清水寺にあります。
 
 2つ目の業績は「徳政争論」で桓武天皇に征夷を辞める決断の後押しをしたことです。具体的に言えば、天皇が死の直前に、このまま新しい都平安京の造営と征夷という軍事作戦を両立するということは、財政面においてもまた治安の面においてもトータルで見てこのままでいいのかと思い悩み、その結果、家臣に問答をさせて判断を下す、と言う手法をとり、平和の決断を下すわけです。これをプロデュースしたのが、誰よりも征夷に貢献した田村麻呂ではなかったかと、私は思っています。
 
 そして3つ目は薬子の変です。桓武天皇の2人の息子、平城天皇と嵯峨天皇の確執で、位を譲った平成上皇がもう一度皇位につくとの野望を抱いて反乱を計画する大事件が勃発しました。これを田村麻呂が出撃して鎮圧に成功し、平和を勝ち取った功績です。
 
 田村麻呂は、その死後は勅命により、都の東に向かって立ったまま柩に納めて埋葬され、「平安京の守護神」「将軍家の祖神」と称されました。我が国の歴史書「六国史」では、田村麻呂のエキゾチックな風貌が紹介されているだけでなく、「怒って眼をめぐらせば猛獣も忽ち死ぬほどだが、笑って眉を緩めれば稚児もすぐ懐に入るようであった」と描かれています。
 
【さいごに】
 田村麻呂の子孫は清水寺を守り、また現在の大阪市平野区などの地域を治めるのですが、その4代目に坂上是則と言う人物が登場します。彼は蹴鞠の名手で、リフティングを206回まで続けて一度も落とさなかったので醍醐天皇から称賛されたエピソードがありますし、百人一首の「朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪」を詠んだ歌人としても有名です。 
 
 また、平安後期の法学者である坂上明兼も田村麻呂の末裔であり、法学書「法曹至要抄」は鎌倉幕府の「御成敗式目」にも影響を与えました。このように、征夷大将軍の後裔から文化芸術や学術の超一流が誕生したことは、極めて興味深いと思います。
  
 最後に、大河ドラマでは男だけが登場するのは失敗のもとだと言われますので、坂上父子のドラマも上記のままでは心配だと思われるかもしれません。しかし、ご安心ください。この時代の女性は誰もが逞しくドラマチックです。
 
 光明皇后と孝謙(称徳)天皇の母娘、称徳女帝の異母妹で悲劇の象徴井上内親王、吉備由利(真備の娘)をはじめとする優秀な女官たち、桓武天皇の母で百済系の高野新笠、清水寺縁起や今昔物語集に登場する田村麻呂の妻・三善高子、薬子の変の主人公藤原薬子など、実に多彩なラインナップではないでしょうか。
 
 田村麻呂の娘・春子は桓武天皇の妃で、葛井親王を産みました。親王が12歳の折に豊楽院の射礼で百発百中を成し遂げ、外祖父田村麻呂が喜びのあまり親王を抱いて立ち上がって舞い、「自分は10万の兵を率いて向かうところ敵なしであったが親王には及ばない」と語ったといいます。親王の孫・棟貞王女が清和天皇の更衣となり清和源氏の源流となります。源為朝や義経には、田村麻呂の血が受け継がれているのです。
 
 激動の平城から平安にかけて、平和のために戦った2人の大将軍は、まさに「親子鷹」といって過言ではありません。骨太の大河ドラマをぜひ視てみたいと願うのは、私だけではないと思います。(おわり)
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