吉田たかおのよしだッシュブログ

京都市会議員 (公明党)・吉田孝雄が日々感じたことを綴ります。

『パルスオキシメーター』配備の促進を!

2021.01.16 (Sat)
1月14日、厚生労働省はコロナ禍で命の危機を回避するため、重症化の兆候つかむ『パルスオキシメーター』配備の促進を全国の自治体に通達しました。公明党が一貫してリードしたものです。
 
20210104検査機器

宮城県では自宅療養中の感染者への配送も始まったとのニュースも報道されています。京都市も本格的に検討する必要があると思います。

詳細の情報は、公明党HPの記事をご参照ください。

「高齢者の足の確保」問題について

2021.01.16 (Sat)
京都市では、市内中心部と比べて山科区・伏見区・西京区など周辺部は市バス系統が少なく「交通不便地域」と呼ばれています。伏見区の醍醐地域(醍醐・石田・日野・小栗栖)ではコミュニティバスが定着していますが、それ以外の地域では高齢化に伴う「足の確保」問題が喫緊の課題となっています。

私の地元・桃山地域でも、駅や商業施設への移動が困難になった高齢者から「醍醐のような交通機関が導入できないか」との切実な声が寄せられていますが、種々の検討を重ねているものの、結論がなかなか出ない状況です。コミュニティバスを導入しても経営が成り立たずに破たんすれば、もっと大変な事態になるからです。

201001吉田代表質問2

私は、多くの方々との意見交換を通して、議会の場で何年もかけて質疑を重ねてきました。ちょうど1年少し前の2019年12月の本会議代表質問で、「桃山南地域のバス路線変更」の検討を要望するとともに、長期ビジョンに立脚した福祉施策を提案しました。

その折に市長・副市長から「次期高齢者支援計画に盛り込みます」との答弁がありました。このたび取りまとめられた「京都市長寿すこやかプラン第8期」に新規事業として「介護施設の送迎バスを高齢者移動支援に活用する」施策が盛り込まれ、正式に今後の指標となりました。本当に良かったです。

1月からパブリックコメントも募集されています。ぜひ市民の生の声を寄せて頂きたいと存じます。尚、下記に本会議代表質問の模様を抜粋して紹介します。

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 2019年11月市会本会議代表質問
                            12月4日
(略)
【高齢者など交通弱者の移動支援】
最後に、高齢者など交通弱者と言われる方々の移動支援についてお聞きします。私は平成22年11月市会本会議代表質問で地域公共交通の在り方を問題提起し、その後も本会議や委員会で積極的な議論を重ねてきました。

高齢化の進展で、交通弱者の移動支援は極めて重要な課題となっています。醍醐地域はいち早くこの問題に取り組み、コミュニティバスを開業。本年15周年を迎え、乗客800万人を突破する記念イベントが開かれるなど軌道に乗っています。関係者のご尽力に敬意を表します。隣接する桃山地域でも「醍醐のようにできないか」との声が早くから上がっていますが、規模的に採算面で困難であり実現への動きに至っていません。

桃山地域の公共交通問題を、9月市会で同じ伏見区選出の2人の議員も取り上げられました。会派を超えて問題意識を共有しているのです。それほど切実であることを市長も認識していただきたいと申し上げるものでございます。

また、9月市会で提案された「高齢者の安全運転支援と移動手段の確保を求める意見書」でも、「高齢者が日々の買物や通院などに困らないよう、コミュニティバスやデマンド型乗合タクシーの導入など、地域公共交通ネットワークの更なる充実を図ること」と論じており、全会一致で採択され国に送られたところであります。

本年3月の予算委員会と10月の決算委員会で、私は桃山南学区に居住される方が高齢化に伴って駅まで歩く時間が倍増し困っている点を取り上げ、現在運行している京阪バスの「経路変更」を要望しました。

同じ京阪バスで山科区の小金塚と鏡山という2つの地域において新路線や増便などの実証実験も行われています。また、上京区では過去にデマンドバス運行実験など意欲的に取り組んだ経緯がありましたが、トータルな判断で市バスの経路変更を実施。大変に喜ばれています。ぜひ、桃山南学区のバス路線経路変更の実証実験に向け本格的に協議していただきたい。まずこの点を強く求めておきます。

高齢者の移動手段をいかに確保するかという課題は、山間地域や周辺地域だけでなく市街地中心地域でも深刻化することは、私が上京区で活動していた当時から重要な懸案でありました。10月の本会議でも鈴木副市長が「高齢者の方にとって最寄りの駅やバス停までの移動、すなわちラスト・ワンマイルへの支援が求められている」との認識を示しておられます。全市的な地域公共交通ネットワークへのビジョンを明確にして、実現に向けて具体策を検討することは待ったなしの課題であると申し上げるものです。

ただし、他都市で実施されている「ライドシェア」を分析しますと、大型タクシーのワゴン型タイプで乗り合いするスタイルでは、なかなか採算が合わず行政支援が際限なく膨れ上がってしまう懸念が大きく、多くの自治体が二の足を踏んでいる状況であり、厳しい現実があります。

そこで、発想を転換し、現在の「介護予防日常生活支援総合事業」の仕組みを拡充して、高齢者の移動支援に生かせないかと提案させていただきたい。国のガイドラインによると、この総合事業サービスの1つとして、要支援者の移動支援や、その前後の生活支援を行う事例が示されています。本市がこのサービス類型を新たに設けることによって、要支援の高齢者が介護事業者の送迎車両に乗って買い物や医療機関などに立ち寄ることができるようになるのです。

全く新しい仕組みを一から立ち上げるのは大変ですが、この介護予防日常生活支援総合事業を生かすものであれば、実現に向けて大きな可能性があるものと考えます。本市でも、地域に根を張る介護サービス事業者が高齢者の移動支援に取り組む仕組みを構築し、積極的に支援するべきと考えますが、いかがでしょうか。以上で私の質問を終わります。ご清聴ありがとうございました。

≪村上副市長答弁(主旨)≫
高齢者の移動や外出を支援することは重要と認識。ご提案の「総合事業の訪問型サービス」拡大は、他都市でも導入されている。高齢化進展を重視し、来年度策定の「第8次長寿すこやかプラン」に合わせ検討してまいりたい。 

第3次緊急要望を提出

2021.01.15 (Fri)
1月14日、公明党京都市会議員団10名は、京都府をはじめ7府県に発出された「緊急事態宣言」を受けて、門川京都市長に『新型コロナウイルス感染症対策の更なる強化を求める緊急要望(第3次)』を提出し、突っ込んだ意見交換を行ないました。
 
20210114緊急要望1
  
この『第3次緊急要望』は、市民から寄せられた切実な声を「緊急事態宣言下の施策」「感染症拡大防止対策・医療機関への支援」「子育て支援・教育」「広報充実」の4分野16項目に絞り込み、国や府と連携して迅速に実行するよう求めたものです。

20210114緊急要望2

市長は新型コロナ感染拡大の実態を極めて重大に受け止め、「思いは同じです。市民の命と健康、暮らしを守り、医療崩壊を防ぐために全庁挙げて取り組みます」と確約。先手を打った取り組みが大事との認識を共有しました。

下記に本文をご紹介します。

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                        令和3年1月14日
京都市長 門川 大作 様 
            公明党京都市会議員団 団長 湯浅 光彦

新型コロナウイルス感染症対策の更なる強化を求める緊急要望(第3次)

1月13日、大阪府・兵庫県と共に京都府において緊急事態宣言が発出された。新型コロナ感染者数が急増する中で市民の不安も大きく増してきており、まさに政治として信頼感が強く求められるところである。門川市長におかれてはこの状況を深く受け止め、以下の緊急要望について京都市総体として全力で取組むことを強く要望する。

1.緊急事態宣言下の施策
●新型コロナウイルス感染症対策分科会が注意喚起した感染リスクが高まる飲酒を伴う懇親会など「5つの場面」の周知徹底、市民のあらゆる世代を対象にした感染拡大を防ぐための行動変容を促す取組を強化すること。
●時短営業要請に協力する飲食店等へ理解を得るよう努めること。また、食材等を提供する事業者への支援を国と連携し迅速に実施するとともに、アルバイト学生等への支援を検討すること。
●コロナ陽性感染後の疫学調査で一定期間の自粛を要請された濃厚接触者の中で、雇用調整助成金や休業給付金などの支援の対象外である個人事業主(時短要請対象外施設)の休業給付金の創設を国に求めるとともに、本市においても支援策を検討すること。
●経済状況を見極めつつ、雇用調整助成金の更なる延長を国に要望するとともに、大学生の学びの環境整備および就職支援に力を入れること。さらには持続化給付金の開業特例にも当らない事業者への支援策を検討すること。
●時短の影響を受ける交通事業者(鉄道・バス・タクシー)への支援を国に要望するとともに、とりわけ影響を受けやすい個人タクシーなど小規模事業者への経済的支援を検討すること。

2.感染症拡大対策・医療機関への支援
●府と緊密な連携のもとに検査体制及び医療体制等を一層強化するとともに、医療施設・介護施設・子育て施設などにおいてマスクや感染防護服などの必要不可欠な医療・介護備品を提供するなど、感染予防のための総合的支援を強化すること。
●医療相談体制の拡充をはかること。「きょうと新型コロナ医療相談センター」の音声ガイダンスによる案内や、厚生労働省のHPへの誘導、ガイドラインの策定など、不安を軽減する相談体制の拡充に取り組むこと。
●一人暮らしの高齢者など要配慮者が、陽性であるにも関わらず自宅待機を余儀なくされている現状を重視し、早急に解消すること。
●国のワクチン接種方針に基づき、安心安全なワクチン接種の円滑な実施に向けた体制整備を受け、府および医療機関等との連携を強化すること。あわせて、接種券の発行や予約確認方法等の接種情報について「ワクチン接種相談窓口」を設置し対応すること。
●医療崩壊を防止するため、医療従事者の負担を軽減する更なる具体的支援策を講ずること。市独自の経済的支援を検討すること。

3.子育て支援・教育
●家庭での虐待防止への取組を強化すること。
●学校や園での感染拡大防止策を強化するとともに、教育現場での希望者にはGIGAスクール構想に基づく遠隔学習を実施する等の対応を推進すること。
●受験生は、入学試験の時期に当たるため、多角的かつきめ細かな配慮が重要である。大学側と協議した結果を迅速に公表して安心を提供すること。

4.広報充実
●感染者情報についてはベッド占有率、自宅待機、施設療養などの現状について正確かつ分かりやすい情報発信に努め、市民への感染予防対策をより実効性あるものとすること。
●医療・介護従事者はもとより休園が出来ない保育士などのエッセンシャルワーカーの方々への感謝の想いを積極的に広報すること。
●京都市新型コロナウイルス感染症対策支援「支え合い基金」において自らの自治体へのふるさと納税としての意義を周知拡大すること。 

倭国大王列伝(3)

2021.01.04 (Mon)
3.ミマキイリヒコ(崇神天皇) 

 九州から東征し、ヤマト(大和)に王権を開いたカムヤマトイワレヒコ(神武)から10代目の大王であるミマキイリヒコ(崇神)は、記紀をはじめ我が国の歴史書において時代を画する多大な業績を挙げたと伝えられている。

 1つは、疫病で国民の過半が失われる試練を克服したこと。2つは、王権の危機ともいえる強大な反乱を鎮圧したこと。3つは、いわゆる「四道将軍」を北陸道・東海道・山陽道・山陰道に派遣したこと。4つ目は出雲国を平定し勢力下に置いたこと。5つ目は戸口調査で農業を振興し「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称えられたこと。6つ目は灌漑など大型の事業に成功し国家の安定に尽力したこと。そして7つ目には任那や新羅との交流が始まったとされる点である。 
 
 記紀では、2代から9代までの大王の事跡に関する記述がほとんど無く、特に日本書記では第7巻に一括で収録されている(いわうる欠史八代)ことを踏まえると、第8巻に記載された崇神に多くの偉大な業績が集中していることに対して、近代合理主義的観点から疑いの目を向けられ、非実在説が主流になっている。神武と同じ称号(ハツクニシラス)を捧げられたことも、その根拠となっている。しかし、文献学的および考古学的に検証した結果として、全くの虚像(フィクション)と決めつけるのは妥当ではなく、長い年月の風雪に耐えて伝承されていた実像(歴史的事実)の痕跡が垣間見えるのではないか。この点を考察したい。

【考察1】血統
 伝承として神武から10代目の大王と記憶されていた。ヒコクニオシヒト(6代孝安)から書記が編纂された当時の朝廷に仕える豪族の遠祖が登場するが、これは以降の直系や傍系の王子の名前に「ヒコ〇〇」と付くことからも信憑するに足ると思われる。同時に、吉備氏や毛野氏などの地方王権や和珥氏、丹波道主などの朝廷と連携した主要豪族の系図を皇統に組み込んだ痕跡と推察される。(ただし、代数や名前は正確ではなく後世に造作されたものであることは、多くの歴史家の洞察の通りと思われる) 

 ヒコオオビビ(9代開化)の嫡子である崇神は、畿内北部に広大な勢力を持つ息長氏の祖ヒコイマス(彦坐)の異母兄弟であり、同時に蘇我氏などの祖である武内宿禰の祖父ヒコフツオシノマコト(彦太忍信)の異父兄と伝承される。この時代までの先行豪族勢力の血統を集約するとともに、のちの時代に活躍する豪族の元祖的存在と位置付けられている。息長氏はオキナガタラシヒメ(神功皇后)の出自であり、その権力を支えた長寿の臣下が武内宿禰である。

【考察2】疫病 
 即位5年目に疫病が流行して人口の半ばが失われるパンデミックに直面。2年後に、ヒコクニクル(8代孝元)の妹ヤマトトトヒモモソヒメ(倭迹迹日百襲姫)に大物主神が憑依して託宣され、そのとおりに対策を打って疫病が終息し五穀豊穣となった。百襲姫を祀る箸墓古墳は最古の前方後円墳で、最新の考古学知見では3世紀中半~4世紀初頭の頃と推定される(魏志倭人伝の卑弥呼とほぼ同時期)。したがって、その2世代後の崇神は4世紀初期から中期頃の治世と推定される。

 邪馬台国畿内説に立てば、神を祀る巫女である百襲姫が女王卑弥呼に比定されるが、この前の70~80年間の「倭国大乱」が記紀には全く描かれていない(欠史八代)のが弱点である。また、纏向遺跡が倭人伝に詳しく記載されている「環濠集落」ではないことも大きい。崇神の2代後の景行時代から本格化する「熊襲征伐」伝承や6世紀の「磐井の乱」に比定される古墳の発掘成果を分析すると、邪馬台国九州説の可能性が高いのではないだろうか。

【考察3】四道将軍 
 即位10年、四道将軍を派遣したと伝わる。大彦命(9代ヒコオオビビ=開化の第1皇子)を北陸道に、武渟川別(大彦の息子で阿倍氏の祖)を東海道に、吉備津彦(7代ヒコフトニ=孝霊の皇子とされる)を西道(山陽道)に、丹波道主(開化の皇子とされる彦坐の子)を山陰道に将軍として遣わした。その直前、タケハニヤスビコ(武埴安彦=8代孝元の皇子)が謀反。北方の山背(京都府)と西方の大坂から都を挟撃されるも、吉備津彦命と大彦命、ヒコクニブク(彦国葺=和珥氏の祖)の活躍で叛乱は終息。四道将軍は翌年に戎夷を従わせたという。 
 
 これほど早期に成功した要因は、四道将軍の派遣が軍事侵攻ではなく、疫病に苦しむ地方を救援するための「応援部隊」だったからであると推定したい。重病者の救護や隔離、軽症者の治療や介護、食糧など生活必需品の提供、荒廃した村落の復旧作業(消毒・耕作地整理など)や労働力補充を含めた、多角的な救援活動を展開して、本州の各地域の立て直しに貢献した。このことが倭国統一への足掛かりを構築したと後世の歴史書(記紀以前の国記・天皇記や帝紀・旧辞などを含む)で綴られたのではないだろうか。 
 
【考察4】「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」の称号  
 疫病や反乱という危機的状況を克服した倭王権に各地の王権が心服し、吉備や丹波などを含む連合王権の盟主となった。吉備津彦や丹波道主などが皇統に組み込まれたのは、血族の盃のような盟約を交わした痕跡なのかもしれない。その後、戸口を調査して初めて課役を科す事業を成就するとともに、大規模な灌漑事業を行って農業を振興した。これらの業績で「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」と称えられたと伝わる。九州や出雲という並列する王権を圧倒する実力を名実ともに身につけた治世であった。

 なお、倭国よりも中国に近接している韓半島では、魏志韓伝で馬韓と辰韓と呼ばれた地域がそれぞれ統一されて、その後の正史で百済と新羅という王朝国家が成立している。この地殻変動と軌を同じくして、崇神が率いる倭王権の統一事業も4世紀半ばに本格化したと思われる。
 
【考察5】出雲平定 
 武埴安彦との戦いや四道将軍の活躍で勢力を拡大した倭王権は、素戔嗚時代から文明伝播の象徴であり内政と外交をリードしてきた出雲に謀略を仕掛ける。新宝を献上させる命を下し、これに対する出雲振根(いずものふるね)と弟の飯入根(いいいりね)の紛争への介入を口実に、吉備ら近在の勢力と合力して武力侵攻。長年の国家的課題であった旧宗主国出雲を完全に支配下に置くことに成功した。覇者交代を象徴する大事件であり、天孫族の直系たる九州倭国(ヤマトからは熊襲と蔑称される)を侵攻する決意を固める契機となった。

 後世から「熊襲征伐」と呼ばれる九州侵攻は、崇神の孫オオタラシヒコ(12代景行)からヤマトタケル(日本武尊)を経て、その子タラシナカツヒコ(14代仲哀)までの3世代にわたる長期戦であり、仲哀が討ち死にしていることからも相当な乱戦であったと推定される。  

【考察6】韓半島と本格外交 
 出雲平定の成果として韓半島との本格外交が始まった。任那が使者として遣わしてきた蘇那曷叱知(そなかしち)は崇神大王の死後も在日し、次のイクメイリヒコ(11代垂仁)の即位2年に任那へ帰国したが、その際に倭国からの交易品を新羅に奪われたといい、任那と新羅の抗争はここから始まると記述されている。

 垂仁期の記述には帰国の際に垂仁が任那の国名を父ミマキイリヒコの名に因んで命名したとの説や、新羅から渡来したアマノヒボコ(天日槍)の末裔タジマモリの常世国のエピソードが収録されている。古代の大きな転換期にヤマトを治めた神功皇后という偉大な指導者(かつ巫女)の系譜を組み込んだ影響と考察したい。

 神功皇后の摂政としての治世と、その後継ホンダワケ(15代応神)が君臨した時代は、おそらく任那の鉄を守るために韓半島で激化した戦乱に本格介入した「三韓征伐」に適合する。この戦争は、金石文として史料価値の高い「好太王碑」において、倭国が391年に百済や任那に軍事侵攻して従属させたが、高句麗が激戦の末に打ち破って404年に撤退させたと謳いあげられている。

 河内に世界最大規模の王墓(応神天皇陵や仁徳天皇陵)を築いた応神の権力掌握の経緯や、曽孫にあたるワカタケル(21代雄略)の絶頂期と急激な衰退、越の国から応神5世の孫の名目で乗り込んで輿入れしたヲオド(26代継体)の列島を横断する壮大な興亡については、研鑽を深める時間を確保して取りまとめて、『続・倭国大王列伝』として後日に掲載したい。ご了承をお願いする次第である。

倭国大王列伝(2)

2021.01.04 (Mon)
2.カムヤマトイワレヒコ(神武天皇) 
 
 天孫のニニギ(天津彦彦火瓊瓊杵)が筑紫に降臨し、その孫にあたるウガヤフキアエズ(鸕鶿草葺不合)の末子(天照の5世の孫)であるヒコホホデミ(彦火火出見)が、日向の高千穂で兄の五瀬(イツセ)らに対し東方への遠征を提案。有名な「神武東征」である。軍勢を率いて日向から豊国の宇佐に着いた後、筑紫の岡田宮で1年、さらに阿岐国の多祁理宮(たけりのみや)で7年、吉備国の高島宮で8年過ごしたという。
 
 浪速の白肩津で迎え撃ったトミノナガスネビコ(登美能那賀須泥毘古)の軍勢と交戦。イツセの負傷(その後死亡)など打撃を蒙って撤退し、紀伊半島を迂回して熊野から上陸。八咫烏の協力を得た行軍は険悪な山道のため苦難を極めたが、地域に盤踞する豪族との戦いを重ねる中で勢力を拡大し、遂にナガスネビコとの決戦を制した。

ニギハヤヒ(饒速日)を奉ずる地元豪族を調略して婚姻関係を結び、畝傍の橿原宮で即位。ヒコホホデミはカムヤマトイワレヒコと諡(おくりな)された。(のちに奈良時代の淡海三船が「神武天皇」などの漢風諡号を一括で追贈する) 神武がヤマト王権の初代大王となった事跡を検証し、歴史事実の反映をあぶり出してみたい。 

【考察1】出立の地 
 天孫のニニギが筑紫に降臨して以降は、次の世代の海幸彦山幸彦の神話や、孫の世代のウガヤフキアエズとワダツミ(海神)の娘との婚姻神話が綴られている。天孫勢力(ウガヤ王朝との伝承もある)が九州地方の主力であった海人族と外交を重ねて覇権を確立した経緯の痕跡ではないかと考察したい。高天原から降臨した地が出雲ではなく筑紫であることは、大国が天国(天照の勢力)に筑紫島(九州)を割譲したのではないかと思われる。

 日向(宮崎県)にも多くの古墳が残るが、地政学的に九州の中心地である筑紫や有力国である火(肥=佐賀・長崎・熊本県)や豊(福岡・大分県)から見て周辺の地であり、そこから出発したとされるヒコホホデミらは正統な王権(ウガヤ王朝)の傍流であったと推定される。

【考察2】東征の大義名分  
 東征の理由には、幾つかの想定が考えられる。後漢書や魏志倭人伝に「倭国大乱」とある動乱期に、邪馬台国連合の混乱とそれに乗ずる狗奴国(くぬこく?=熊襲)の侵攻によって危殆に瀕した日向が瀬戸内海を東進したのではないか。あるいは、大乱のさ中に戦略の一環として王族のヒコホホデミにウガヤ王朝の中枢から指令が下され、倭国に非協力的な勢力(ニギハヤヒを奉ずる畿内エリア)を服属させる軍事侵攻であった可能性もある。この推理は、九州の窓口(宇佐)や瀬戸内海の王権(阿岐や吉備)では戦闘が無く、軍備を整えていることからも伺える。もう1つの仮説は、筑紫や宇佐、安芸や吉備という製鉄の地域が漸進的に勢力を東に延伸していったプロセスが伝承され、それが記記に収録されていったとも考えられる。

【考察3】戦闘経過 
 記紀には神武東征の経緯がドラマチックに描かれている。ヒコホホデミ軍が浪速(波が困難な地=難波)に侵攻して河内湾から上陸した際に草香邑(東大阪市)の孔舎衛坂でナガスネビコに迎撃され、長兄イツセが流れ矢にあたって負傷した。日の神の子孫の自分たちが日に向かって戦うことは天の意思に逆らうと悟り、軍勢は海路南へと向かった。イツセは茅渟(和歌山市近辺)で亡くなり、船は熊野付近で大嵐にさらされる。次兄と三兄が自らを犠牲にして波浪を収めたが船が大破し、止むを得ず熊野から上陸したものの、毒気(疲労や土地の衆の提供した丹か?)を受け軍衆が倒れる。

 そこへ熊野高倉下が現れ、天神から授かった神剣韴霊(ふつのみたま)を奉ることで気を取り戻して進軍を再開。天照大神が八咫烏を遣わしたとの神意を旗印に宇陀地域や磯城地域に到達し、武力と調略を駆使して豪族を恭順させる。最終決戦では、王権の証である神器を見せつけることでニギハヤヒの名のもとでナガスネビコを誅殺。ヤマト(大和)地方の支配権を簒奪した。

【考察4】戦後処理 
 事代主神の娘(現地の最高権力者の一族)ヒメタタライスケヨリヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)を正妃とした。道臣命や大来目らの子飼いに領地を封ずるとともに、侵攻時に協力した現地の豪族らに本領を安堵。ヒメタタライスケヨリヒメを迎えるにあたり大来目の入れ墨(魏志倭人伝で克明に記述される風習)に困惑したとのエピソードも残されている。
  
 その死後に、九州時代に儲けた長子タギシミミと地元のヒメタタライスケヨリヒメ所生の王子との後継者争いが勃発し、カムヌナカワミミ(神渟名川耳=第2代綏靖)が勝利して即位した。母系社会の視点から考察すると、筑紫から来襲したヒコホホデミ(イワレヒコ=初代神武)の血筋を受け入れた上で、従来のニギハヤヒ系統と習合したと言えるのではないか。

 カムヤマトイワレヒコとの諡号は、前方後円墳発祥の地とされる纏向遺跡を擁するヤマト(奈良県)を都と定め、倭王権を創始した「謂れ」を物語る。初代大王である神武は、始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称えられて後代に伝承された。なお、「ヤマト」の名称は九州の倭人連合の首都「邪馬台国」(山戸郡か?)を襲名したと考えられる。 
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